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本能寺の謎

出張中には1冊だけ本を持ってい行きます。
大体が、寝るのにちょうどよさげな肩の凝らない本と相場が決まっていまして
今回は、写真の1冊が選ばれました。
きのうは、青森から札幌まで移動したのですが、
列車での移動なので、本当は仕事をしようと思っていたのですが、
やはり、疲れがきていて気力が持たなかったので、
やむなく、読みかけていたこの本のお世話に・・・。

プレジデント社という出版社なのですが、
これまでは経営関係の本が多いと思っていた出版社からの歴史本。
それも、明智光秀の子孫の方が書かれた、
ということで、結構売れているのでしょうか?
戦国ものの中でも、本能寺をテーマにすれば、
信長・秀吉・家康の3大スターが勢揃いするので
売れやすい、という判断はあるでしょうね。
出版はビジネスですから、こういうメガネの持ち方は良く理解できる。
でも散々、多くの出版で取り上げられているテーマなので
切り取り方は、まことに難しいだろうと思います。
それが、明智の子孫、というあたりがいちばんのウリなんでしょう。
いくつか、面白い見解もあっていいと思うのですが、
家康と光秀の間で、同盟関係が築かれていたというあたりは
大いに疑問を覚えざるを得ませんでした。
それも本能寺の直前時期に、安土での接待役だったので、
そういう機会があってもおかしくはない、という推論だけなんですが、
むむむ・・・、そりゃ無茶だ。

ただ、この信長の横死には、やはり多くの思惑はあったと思います。
今日でも、政治家の出処進退、権謀術数には変転きわまりないものがありますから、
この戦国末期の統一国家直前時期には剥き出しの部分もあったでしょう。
信長の政治戦略というか、
国家統治思想というものが徐々に明らかになってきて、
それへの大きな反発が膨らんでいっていたのでしょう。
実力による人材登用で戦争に勝っていった信長の戦略が
ものの見事に破綻したのが、本能寺だというのは無理がない解釈。
使われ続けたあげくに、どんどん遠国に追いやられるだけという
「中央集権的絶対権力国家」という信長の
国家構想では、そのもとで必死に働き続けるのが
バカらしく思えてきた、やっていられない、と思った。
要するに、信長の人の使い方が決定的に破綻したと言うことなのでしょうね。
そういう意味では、
秀吉にも、家康にも、みんなに「この人、死んで欲しいなぁ」と
信長という人物は、思われ続けていただろうことは想像するに余りある。
秀吉は、きっと誰かがやると踏んでいただろうし、
その情報収集には相当の労力をかけていたのは間違いないだろう。
だから、さっさと対毛利戦争を止めて
「弔い合戦」という大勝負に打って出る局面チャンスを掴めた。
信長という重しが除かれて、家康も生き生きと甲信2カ国を侵略している。
光秀は、みんながやって欲しいと思っていたことをやったけれど、
それを明るい国家構想の形にまで出来なかったのでしょう。
まぁ、推理ものとしては悪くはない、という感じかなぁ・・・。
ふたたび、読書感想でした。

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