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住む土地選びの基準って?

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さて、土地って、みなさん、どのように選んでいるのでしょうか?
人口の都市集中が始まるまで、って、たぶん江戸期以前までさかのぼるか、
しなければならないと思いますが、
そういうころは「住宅を建てる土地を選ぶ」、
というような概念は、あまりなかったのではないかと思います。
それぞれの「生産労働」のための土地との関係の中で
ほぼ自動的に決まっていたのだろうと思います。
武家はその主君である殿様の居場所までの距離自体が、身分をあらわすものであった。
したがって、必然的に屋敷地は決まっていた。
農家は、その先祖伝来の土地、生産手段そのものに縛られて家を持った。
漁家は自らの漁業権の浜に建物を建てて住んでいた。
町人は比較的に自由であったように見えるかも知れないけれど、
商人は、体制が定めた「街割り」で、同業者が一定地域に居を定められていた。
はるか後年の札幌の街割りですら、そういう機能集中都市の考えがあります。
その配下の使用人、一般的な町人はその商家から遠くない
共同住宅・長屋に暮らしていた、というのが一般的だった。
交通の手段が徒歩の範囲に基本的に収まっていただろうから、必然だった。
あそこよりはこっちがいいかな、というくらいの
2〜3の中からの選択くらいはあっただろうけれど、
そういう住むための土地選択の自由という概念はたぶん、なかった。
どうもそう思えます。
生きるための土地選択、というより大きな意味では、それが日本の戦争の
基本原因である、経済的欲望それ自体ではあったと言える。
そういう部分というのは、権力抗争の結果であって、選択の自由という概念ではない。
そういう武将同士の戦略部分って、たぶん、それぞれの条件の下で
誰が考えても、同じような結論に至ったような部類のことだったのだろうと思います。
伊達政宗は仙台をそういう土地と考えたし、おおくの地方権力者は
それぞれの条件の中でもっとも農業生産性の高い土地を
「血眼で」奪い合ったことでしょう。
秀吉は政治経済両面での日本制覇を考えて大阪を拠点とした、ということ。
ただ、秀吉が、家康に江戸を首府とすべきだとアドバイスした、
という歴史上の経緯は、たいへん面白いと思う。
なぜ、この土地に秀吉は着目したのか、ということはもっと研究されていい。
国の発展のポイントとして、首都の選定って
きわめて重要なポイントだろうと思うのですが、現代日本の
この点での選定作業って、この2人の時代までさかのぼって決定されているんですよね。
経済というものを相当敏感に扱っていた権力者、秀吉にしてみれば
関東の首府は、絶対に江戸でなければならなかったのでしょう。
そういう経済的発展の基盤を、かれはリアルに見定めていたのだろうと思います。
たぶん、かれの選定ポイントから推定すればやはり水利の優位性、
そして、耕地利用可能な後背地の広さというポイントが大きいのでしょう。
徳川政権崩壊時に、慶喜が江戸での戦争を考えもしなかったのは
江戸という都市が、防御的な性格を持たず、主に経済的な面での
「利便性」から選択されていた、ということを深く理解していたことも
大きかったのではないでしょうかね。
って、すぐに脱線するなぁ(笑)。
きのうから、「都市の快適」研究、みたいなカテゴリーテーマを考え、
このブログに書き留めていきたいと、はじめたところですが、
まぁ、ブログなんで、あっちこっち行きながら、楽しく考えをまとめられたらいいなぁと
のんびり行こうと思っています。
ブログって、結局は自分自身のために書き続けるものですよね。
さてさて、土地選びの基準って、どうまとまることやら・・・。
写真は、中国の巻物に描かれた墨絵のなかの住宅。
文とは無関係(笑)、ですね。

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