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住む土地と住宅

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きのうブログで書いていて、気づいた部分がふくらんでいます。
特定の土地にしばられて生きる、住宅を建築するっていう行為は、
現代人にとってどういう意味を持っているのか?
って、真正面から書くと大げさなんですが、
取材しているといろいろなケースに出くわしますね。
古民家などは、いろいろな社会的な制約の中でそこで暮らし続けることが
きわめて当然のこととして受け止めていて、
というか、そんな思念が及ばないくらい当たり前のこととして
生まれ育った土地に暮らし続けるという選択をしていただろうことが
ストレートに伝わってきます。
個人という基準よりも、「家の存続」、ということがらのほうが重要度が高く、
そういう住宅は、大家族の生活装置として、
個人的趣向よりも、仏壇とか神棚、といった家系存続装置のほうが重視されている。
家の機能として、当主個人よりも法人としての家系のほうが価値観が高い。
住宅建築ということが、大事業であり、
長い年月にわたって大切に使うという社会常識が存在していた。
それに対して、現代、建てられ続けている住宅は
基本的には、夫婦という単位での生活維持が基本であり、
むしろ個人的な、快適生活享受のための装置という側面が少し目立ってきた、
というような作られようなのではないかと感じます。
極端な例では、・・・っていうか、増えているけれど
戸建てで、ひとりしか住まないことを目的とした家、というのも多い。
都市でのワンルームマンションばかりではなく、
単身のまま、結婚しないことを決めた女性のひとり暮らしの住宅、
というようなケースも増えてきているんですね。
こういうケースでは、あきらかに目的が違ってくる部分がある。
古民家のような、そこに暮らし続ける必然性を前提としたものと、
どう考えても、単身として使ったあとの使用目的の永続が考えられないもの。
このふたつの家づくりの間で、ゆれ動いているのが
現代の家づくりなのではないかと、思われます。
とくに後者のような場合では、地域との必然性はどうしても薄くなる。
たまたま、社会的な、あるいは自然環境的な部分だけで選択されているケースが多い。
よく建築家の住宅を取材すると、家のタイトルに
地名を付けているケースが多いのですが、それって、
かれらの一番の関心事が、その土地が大前提という意識で
プランしていることが伝わってくるわけです。
確かに家を考えるときには、土地の条件が一番大きいのは当然です。
しかし、どうも、社会的には、建て主の意識としても
そういう部分は、どんどん小さくなってきているというのが実態だと思います。
昔の感覚でいえば、その土地での四季折々の自然の移ろいが
くらしのなかでの句読点として大切にされたけれど、
今はむしろ、どんな土地に暮らしても、標準的快適性の追求の方が
ユーザー認識としては高くなっている、という感じ。
庭はいらないけれど、車の駐車台数は必ず家族分、必要だ、みたいなことなんですね。
社会全体としても、こういう個人的快楽追求のほうに価値観が移行した。
ということなのではないかなぁ、という思いが強くなってきている次第です。
どうしても、大型耐久消費財的な方向に向かっているのでしょうか?
現代の家づくりって。
<写真は盛岡市のお城公園の四阿。記事とは無関係です>

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