先日青森に行ったとき、やはり足が向いたのが三内丸山です。
ほかのどんな建築や住宅よりもやはり見たい。
っていうことで、しっかり見て参りました。
で、建築に関係しているのに、隣接した美術館には
行きませんでした(笑)。
どうも喰わずきらいなのか、近代的な建築には積極的な興味を持てない。
っていうか、少ない時間を考えた場合、
思い出すこともなかった、というのが正直な感想です。
でもまぁ、ことしはあと何回か、青森には行く要件があるので
そのときには、そちらにも見学の足を伸ばしたいと思います。
で、どうしてももう一回行きたい、と思うのは
この写真の「大型竪穴建築」を体験したい、ということなんですね。
前回までは一眼レフカメラではなかったので、
今回は、愛機になってきた一眼レフで、場合によっては
印刷原稿にも使えるような写真として収めてきた次第。
いまから4000年から5500年前に、
この建築は建てられているワケですが、
規模が壮大であります。長さ32m、幅10mというから、
面積が320平米。100坪近い大空間であります。
で、柱も梁も栗の木で、ごらんのような豪快な架構です。
わたし、実はわが社の新築の時に、
この空間のイメージがあって、こういうプリミティブな建築を
思い立って、検討を進めたことがあります。
掘っ立ての柱の存在感はものすごいものがある。
もうそれだけで、相当の精神性を空間体験として伝えてくる。
で、これが4000年から5500年前のひとびとからのメッセージなんですね。
これはもう、ただただ、立ちつくして身に浴びるしかない。
そんな思いを感じさせてくれる空間です。
はるかな時間を超えて、
こういう空間の意味を考えてみるのですが、
さてどういうことだったのか。
小さな竪穴住居群も存在することから、
一般的な意味の住宅ではなく、公共的な意味合いが強かった建築なのか?
集会施設や、宗教的催事のための施設、
それらの複合的な使用目的の施設、などなど、考えられるのですが、
こういう「社会」を前提に考えなければ想像できない施設が
縄文の時代に成立していたワケですね。
さらに、三内は亀ヶ岡遺跡などとの相関性もあることでしょうから、
縄文という時代は、一体どんな時代であったのか、
弥生の末裔の社会である今日とは、
かなり違った様相の社会性が現に存在していたのです。
その時代の空気の豊かさに、呆然とした昂揚感を抱く次第です。
Posted on 9月 13th, 2011 by replanmin
Filed under: 住宅取材&ウラ話, 古民家シリーズ
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