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「百姓」仕事

百姓、という言葉は、近代から現代に掛けての日本で
非常に使われ方が変化してきた言葉だと思います。
語の本来の意味から言えば、中国語で言うように広く天下万民という意味合いであり、
まことにそのままの響きがあると思う。
それが、農本主義の影響から農であるべき、という考え方が強まって
実際の村落ではコメ以外の多様な生産活動従事者が存在したのに、
それらを農優先の存在であるべきとして農民に誤変換させたに等しい。
で、その後、百姓=農民という思想が幅を利かせる。
そういう基盤の上に、日本の産業振興が明治以降始められ、
農家の次男三男たちを、都市労働者に仕立て上げるために都会の優越性を
社会全体の価値観認識に植え込む風潮が見られた。
街が文化度が高く、田舎が遅れた存在であるという刷り込みが一貫して行われてきた。
メディアというのは、日本において、この面で大きな役割を果たし続けてきた。
それが、マルクス主義的な「農奴」という西欧的価値観の補完もあって
現代まで、どちらかといえば「百姓」という言葉が差別的用語として使われ、
マスコミでは言いかえが行われるようになって、一般語の地位からも落ちた。
どうしても使いたい水戸黄門では、「お」百姓というように
敬語的接頭語を付けてセリフにしていたといわれる。

いま、原発の問題から
この仕事が危機に瀕してきていると思う。
コメという、日本民族とほとんど同義とも思われる生産活動が
放射性物質のありなしで、根底的な危機に襲われようとしている。
まさに固唾をのんで、この測定結果に民族的関心が集中せざるを得ない。
もしコメが、ダメとなったら、どうなるのか?
そしてそれが地域的偏差を持って格差が出たときに、どのように
文化の側、報道やメディアの側は対応するのだろうか?
すでに牛肉や、その他の食材のことで厳しい状況が現れてきている。
なんとか、それら食材を救う方法はないのか。
多少の危険性は覚悟して、それらを産業としての存続性を担保するように
支え続けることは出来ないのか。
百姓の仕事、コメの生産には八十八の百姓仕事が込められているとある。
写真のような「雀追い」の仕事や
この農作業のための小屋がけの素朴さなど、なんとも日本的という印象を持つ。
日本が日本であった、その文化の源である百姓仕事が大きな岐路にある。
このような分水嶺が近づいてきていると感じています。

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