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京大入試不正と「知の価値」

京都大学の試験でIT時代を反映したようなカンニングが行われた。
そのことをめぐって、話題になっている。
警察は「偽計行為」ということで捜査に着手すると伝えられている。
カンニングもずいぶん進化したと言うべきか、
まことにすごい手法で行われている。
まぁ、困ったことではあると思います。

しかし一方で見方を変えれば、
先日来、大学とか、研究者の発表機会などに立ち会っているのですが、
インターネット時代が始まってから
「知の価値」というものが大きく変容してきていて
知っていること、詰め込まれた知識の量(のテスト)自体に
あまりにも多くの「人間能力価値判断基準」を置いてきた制度自体、
疑問符がついてきているのではないかと思われてならない。
テスト制度自体、問題だらけだと思う。
過去の他人の頭のなかに生起したことの蓄積暗記を
ひたすら問い続けるのは、どうなんだろうか?
で、そういう分野での研究でも明らかに想像力が
最大の知的エンジンであり、
けっして、知識の量の多さが個人の能力を表現してはいない、
と断言できると思う。
知識の量を問う、ということ自体、
今後のIT技術の進展を考えれば、意味が小さくなっていく可能性は高い。
より小型化して、肉体に一体化したデバイスの出現可能性は高く、
それがネットに接続する属性を持つであろうことは
火を見るよりも明らかだ。
そういう時代になっていくときに、
知の量を問いかけるテスト手法は、こういったカンニングと、
イタチごっこになっていくだろうし、
むしろ、根源的に違う価値観のテストに変わらなければならないのではないか。
知識の量自体は、単純にインターネットなどを活用すれば
簡単に入手可能である、ということは
人間の「知の環境」が大きく激変したと言うことであり、
今後求められる人間能力は、その応用力に大きな力点が求められるのは
明らかではないかと思う。
このように考えてくると、
今回の件は複雑な様相を見せるのではないだろうか。

<写真は、知の日本的建築表現としての書院>

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