「袖ふれあうも他生の縁」というコトバがある。
この「他生」というフレーズはよく誤解される。
多少というように、ほんの少しというような意味合いで捉えられることがある。
多くの人に問いかけると、みごとにこの誤解が広がっている(笑)。
日本語の危機でもあり、また「進化」でもあるのかも知れない。が、やはり違う。
コロナ禍のストレス発散で冬の雪道を散歩する毎日。
人が通れば道になる、というような格言通り、いろいろな広さの道ができる。
こういう雪道は北国らしい冬の楽しみでもあるかも知れない。
人間一人がようやく通れるくらいの広さは、
たぶん30cmくらいの広さになっている。このくらいの広さを1尺という。
ただ、これくらいの道幅だとすれ違うことが困難。
で、どちらともなく「譲り譲られ」というコミュニケーションが成立する。
譲っても譲られても、お互いに会釈することになる。
「ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして」
・・・というときに、先述のコトバがアタマのなかに生起する。
一期一会だけれど、同じような道を通って同じ時間を共有する。
他生というのは、〜今生(こんじょう)に対し、現在の自分がその生れ変りである
過去の生、および生まれ変わって行く未来の生。前世および来世〜。
そういうことをこういう出会いに掛け合わせる精神性。
不思議なもので、この30cmくらいの道幅を超えると
すれ違うことができるからか、そういった心情を持つことはない。
1尺という単位はよくできた単位で、次に多くなるのは2尺程度の道幅。
これだとなんとかすれ違うことができるので、なにも感慨を生み出さなくなる。
それ以上の道幅となると機械除雪が入って、ほぼ135cm程度の道幅になる。
で、1間となるとほぼ1.8m。あるく道としてはおおむね用を足せる。
奈良の都の造営とほぼ同時期に日本の街道が整備されたという。
どんなカタチだったかといえば、以下のようなWEB上の記述がある。
〜その本来の姿は平地では両側溝を備え、その幅は側溝間の芯々距離で
六・九・一二メートルなどが多く、いずれも丈(約三メートル)の倍数が多い。〜
<みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」 >
律令国家を志向した日本社会はまずまっすぐな大道を作り始めた。
律令という社会の規範を通すということと道をつくることが重なった。
道とひとのいのちとは、どうも昔から縁の近い捉え方をされてきたといえる。
先人の考えたことというのは、人間の真実が宿っている。
冬の雪国では、こういう「還元的原点回帰」を容易に経験できる。
ただ、最近加齢とともに「他生」というコトバに強く反応するようになった。
だれかが最初に歩いた道を、ゆっくりと踏みしめながら歩く。
それもまた他生の感じ取り方なのかも知れない。
<英語版は諦めました(笑)。こういう定型日本語フレーズはAI理解不能のよう>
Posted on 1月 26th, 2021 by 三木 奎吾
Filed under: こちら発行人です, 日本社会・文化研究
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