過去探訪の「日本人のいい家」シリーズ。本日は福島市の堀切家住宅。
このシリーズを続けていると、いまに残っている重厚な古民家建築の家系には
ある共通項的な「経緯」があると思います。
北海道にいると気付きにくいけれど、日本の現在に連なっている「有力家」って
江戸期に淵源を持つ大規模土地所有者であるということ。
それが明治初年の「日本資本主義」勃興期において、それまで幕藩体制下では
国持「大名」たちの専制支配で、大規模な土地所有が難しかったものが、
明治維新の結果、かれらを中心に大規模土地所有層が全国で出現した。
江戸期にも大庄屋などの経済主体は確かにいたけれど、
支配層の武家の都合で自由な経済活動はできにくかった。
そういった権力制約が維新で解放され、土地所有の自由が拡大した。
そして「担保価値」のある土地所有者が日本資本主義の基礎になった
あらゆる「殖産興業」の主体資本家として登場した。先見の明があったというよりも
経済勃興の自然な推移として特権的階級が形成されたという事情。
こうした社会階層の大変化が起こったことが見て取れる。
その体制が基本的には第2次世界大戦まで続くことになる。
現代で各地域に残る「立派な家」には、おおむねそのような歴史経緯が見て取れる。
住宅は、兵庫県の箱木千年家のように実際に1,000年続く家もあるけれど、
おおむね2-300年程度が建築と社会支配層の「耐久性限界」のように思う。
日本は比較的に社会階層の流動性、循環性は高い社会だと思います。
「おごる平家は久しからず」「家は三代」という格言はそういう民族性をあらわしている。
あ、除く北海道でありますが(笑)・・・。
この福島市の「堀切家」という存在は、今から440年ほど前、1578年に
梅山太郎左衛門菅原治善が若狭国(現在の福井県)から当時の上飯坂村に移住し、
名を「若狭」と改め、「川跡田畑4町歩(約39,700平方メートル)あまりを開作」し、
農業・養蚕に力を入れていきました。〜という戦国期由来の家系起源。
若狭という先進地帯から福島に来て、「川跡」という河川管理の困難な未開削地を
豊かな田園に変えて行ったのではないか。
江戸期には在地の「大庄屋」として年貢の納税主体を務めてきた。
そういった階層にとっての最重要建築が「米蔵」だったのでしょう。
これは1775年に建立された蔵で、桁行が10間(約18メートル)梁間3.5間。
構造材は野太く、200年を超える歳月、コメを守り続けてきた建築。独特の風格。
1部2階があるけれど、平屋35坪の大型倉庫建築。おもに米蔵として使われた。
建立年代が判明するものとして、福島県内最大最古の土蔵であり、
平成19年に福島市の有形文化財に指定されています。
明治期になって、この家系からは有力政治家が多数輩出する。
東京市長なども出ている。推測だけれど、福島県は本来会津が中心だが、
幕末明治の政治情勢のなかで会津は冷遇されて他地域、中通り地域が優遇された。
そういう薩長閥の思惑が感じられる気がする。
明治政権としては相対的に会津を下げ、福島を上げる意図があったのでは。
会津攻城戦では、官軍の本営は福島に置かれたという故実もある。
あるいは明治初年の政戦両面で、この堀切家は重用されたのかも知れない。
家の盛衰には、こういった生々しい部分もきっとあったに違いない。
ただ単に住宅としての「耐久性」を越えた要因も複雑にからむ。
「いい家」というフレーズには、どうも人文的な側面も見いだせますね。
Posted on 12月 8th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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