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【3200年前・縄文期墓制「キウス周堤墓」で合掌】


北海道には多くの「遺跡」が点在しています。
国土開拓がいちばん最後になったことで、歴史的な痕跡が残ったのでしょう。
多くの「民族」がこの地に住み暮らしていた痕跡が見られる。
いまの新千歳空港にほど近い地域に遺されている
「キウス周堤墓群」はそのなかでも異彩を放つ遺跡痕跡だと思います。
北海道千歳市の北東、標高15~20mの緩斜面上。
地面に円形に竪穴を掘り、掘り上げた土を周囲に環状に積み上げることで
大規模なドーナツ状の周堤が造られる。その区画中に墓をつくる形式が周堤墓。
ときどき周辺を移動するときには、空気に触れるようにしております。
なんといっても「縄文後期」という歴史の古さにリスペクト。
訪れても格別の建築痕跡的なものがあるわけではない。
よく訪問する「三内丸山遺跡」は今から約5900年前~4200年前の縄文集落跡。
あちらでは木を使った「柱穴」など建築痕跡が多数復元されている。
いわば縄文の人々の「生存痕跡遺跡」。こちらは「死者の痕跡」。
それらをふたつながら体験同期する、いわば空間の経験値を高めることで、
なるべく豊かに縄文の人々の息づかいを追体験したいのです。


周堤を含む直径は18~75m、周堤上面から竪穴底面までは1~5.4m、
つくる時に積み上げられた土の量は最大3,400立方メートルにも達する。
竪穴内部には複数の墓穴があり、立石が伴うものも。竪穴構造の埋葬施設は、
世界の先史文化の中でも稀であり縄文文化固有の墓制を示す。
周堤墓は葬送や祖先祭祀に関する社会組織を示すものとしてきわめて重要であり、
他に例のない規模で群集し墓制を代表する存在。〜HPより引用抜粋。
縄文期というのは「狩猟採集」生活だけれど定住していた時代。
定住と「墓制」というのはワンセットのように思います。
人類時間的にはもっとも優勢な狩猟採集という食料「生産」段階の社会では
人間が生き延びるためには直接的なパワーとは人間力であり、
そして同時にDNAの存続として定住であれば、血の系統というのも明確。
いま生きている人間にはその両親があって連綿と死が重なっていく。
石器時代でもそういう死の尊厳はあったに違いないけれど、
明確に痕跡が残り始めるのは、縄文以降なのだろうと思います。
日本では縄文の住居は「竪穴」形式が一般的な作られよう。
竪穴住居は好適地を選択して、その場所の土を掘り、周囲にその土を盛り上げて
「低い地面」の生活ゾーンを作るという家の形式。
とくに寒冷気候対応ではこの地面掘り下げがより深くなっていった。
「凍結深度」という概念が人類知としてあったことは疑いがない。
この周堤墓でも、このような「建築様式」が採用されその低地内部に
各人の「眠る場所」が掘られて、埋葬されている。
いわば「死者の集団のための家」というようにみなせる。

これだけ大規模な「土木工事」の、その器具は木製スコップが想定される。
炭化して形状が残らないその器具を使ってどれほどの労力が費やされたか、
それだけの集団労力を維持する社会の存在が明確であり、
その「集団意思」というものがはるかに感受できるように思える。・・・
カミさんはクルマの中でぬくぬく、寂寥と豊かさの入り混じった野外空間を
わたしひとり彷徨う楽しい時間であります(笑)。

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