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【開拓判官島義勇:明治元年銭函-札幌21.5km往復】


「道」シリーズであります。
新型コロナ禍で仕事の仕方が大きく変わって、わたし自身は内勤的な業務に。
これまでなんとなく「後回し」的だった仕事内容に根を詰めるようになって
このブログでも過去に大量に「取材」ストックしたデータを整頓する志向に。
なんといっても北海道での住宅始原期データが山ほどある。
「そのうちライフワークかなぁ・・・」と思っていた写真データ類に
没入しながら、開拓始原の空気感を再生することになっています。
なんといっても北海道は「高断熱高気密」の揺りかごになった地域であり、
多くの先人のみなさんの研究労作などにも導かれながら、
「もっとあたたかい家を」という北海道人の希求の根源を掘り起こしたいのです。
ただ、当然この地での人間営為総体に関わってくる情報なので、
さまざまな人間模様、ドキュメントが時系列的に整理もされてくる。
いわば、基本探究領域からの「スピンアウト」も多くなってくる次第。
そのスピンアウトでも最近、ハマってしまったのが「道」であります。

日本の朝廷国家体制が出来上がって以降から明治終わりくらいまで
基本的な「人間移動」は歩行にほぼ依存していた、
明治初年の北海道での「道路開削」ぶりは写真記録も残っているけれど、
基本的には飛鳥・奈良時代くらいからこっち、道はそんなに
大きな機能変動、形態変化はなかったということに気づかされる。
一気に日本史を縦断して理解する「手掛かり」になるという気付きですね。
この移動交通手段は、飛鳥奈良から大きく変化していない。
歴史事実を解く「モノサシ」に使える。モノクロ写真がカラーになる(笑)。
で、きょうは明治元年10-11月に函館から陸路小樽経由「銭函」までやってきた
開拓判官・島義勇さんの具体的行動事跡の解明であります。
天皇勅願である「開拓三神」を開拓の首府札幌に鎮座させる大命を帯びたかれが、
ほぼ2ヶ月札幌の開拓進捗を睨みながら、銭函—札幌間を往復していた件。
現在のこの間の距離は、銭函駅—札幌駅間でクルマ移動で21.5km。
MapFanのデータでは5km以上は「歩行」データが出ない(泣)。
なんですが、距離は歩行でもクルマでもそう大きくは違いがないと思う。
当然ですが銭函札幌間の道路は当時すでに作られていたようです。
写真は先日紹介した天皇行幸のために開削した小樽—銭函間の
鉄路が敷かれることになる海岸線道路の明治12年頃の様子。
左右幅はなかなかの広さが確保されている。
たぶんほぼ同様の道を、島義勇さんは毎日のように札幌に向かった。
下の図は右に銭函、左に札幌の当時の「地形図」。
真ん中あたりは低湿地が広がっていて、運河水路などもあった。
札幌首府の工事進捗を督励しながら、札幌入りの期日を探っていた。
銭函の民家を借り上げて開拓使「仮庁舎」として使い、吏員も使役していた。
かれの背中には明治帝勅願の「開拓三神」がくくりつけられていたので、
心理としては、国家千年の大命の重大性に慄くようだった。
とにかくこの「開拓三神」安置の座所確保する使命感が強かったでしょう。
武人としてこういう民族的宗教ファンタジーって、やはり重大な部分だと思う。
日本人の倫理観にとってその存在は巨大で明治国家の成立に深く刻まれている。

さてこの21.5kmをどのように往復していたか。
函館からの移動でもウマの用意は十分にあったと思われる。写真も残っている。
札幌への建築資材などの搬入には、開削運河である「創成川」が使われ
大量の木材ストックぶりも写真に残っているので物流ルートは活発化していた。
間違いなくこの21.5kmは乗馬で往復。並足でウマは時速6kmといわれるが、
毎日往復することを考えると時速7-8kmくらいに速歩していた可能性。
たぶん片道3時間程度、往復6時間。かれの日常に具体的実感が出てくる。
日中稼動10時間と考えれば札幌滞在は4時間程度という日常生活。
もうちょっと働くかも知れないなぁ。ただ、この往復時期は11-12月なので、
日が短い・・・。さてどうだったのか、島さん、教えて欲しい(笑)。

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