写真という表現方法が開発されてから長い年月が経過してきた。
1826年フランスで開発されたと言うから、200年ほど前。
写真と出会って、人類は長い間夢見てきた「画像記録」という手法を手にした。
それ以前、こうした映像記録は絵画がその役割を担っていた。
絵画と写真とは、その後、共存する時間を過ごしてきている。
わたしは住宅雑誌という表現の領域で半生を過ごしてきた。
実際の住宅を取材して、写真を指示し記録表現を継続してきた。
数多くの現場を見て、そしてたくさんの写真を収めてきている。
ライブラリーストックは、雑誌1冊あたり平均で700〜800点程度は越す。
年間でいえば1万点程度なので、総体数十万点の写真が保存され続けている。
写真にはそれぞれにコミュニケーションの記録が痕跡としてしのばれる。
そういう一点一点はやがて「あわい」印象で記憶化されていく。
そんな時間経過を経験してくると、
不思議と今度は「絵画」というものの持つ「風情」というものに心が動いていく。
さまざまな絵画が存在しているけれど、
絵画の作者の印象がそこに投影されて、そう「感じた」こととの対話がある。
その対話ということが、非常に興味深くなる。
そういえば、小学校低学年の時に、絵描きさんになるというすじみちもあった。
自分が描いた絵が、札幌と姉妹都市ポートランド(アメリカ西海岸地域)に
「日本の子どもたちが描いた絵」として選出されて送られた。
その自分が描いた絵とは、一度も再会できていない。
せめても、写真で残しておきたかった(笑)。
たしか相撲の絵を描いたのだ。コンクールの経緯からして
こういうテーマがふさわしいだろうと「打算」もあったように思う(笑)。
そんな写真と絵画の関係というのは、人類全体がここ200年程度しか
経験蓄積してきていない。まだ未分化で不明な関係段階だとも思う。
こんにちわれわれが人類史から残された絵画をみるときに、
過去において「写真」的記録性として残されたものと、完全な作品表現として
意図されたものとの境界は、あいまいなのだろうと思う。
ふと手にした画像ソフトで、写真から絵画風表現も可能とされていた。
たまたま古民家の写真を使って、その差異をまじまじと見ております。
具象である写真も、そのアングルであるとか、あるいは画像処理として
ある修正を施したりもしている。
そうした写真を、その画像処理の延長、一環として、絵画風処理が可能。
その仕方も、さまざまに加工可能。たしかに「絵」っぽくなる。
その比較が上下のふたつの「画像」であります。
人間の「印象」というものと向き合うようなプロセスだと思えてきている。
いまのところ、上の画像の方に強く惹かれる自分がいます。
写真と絵画では「人間度」が違うのかも。絵画からは物語性が漂ってきて、
この家を巡ってのいろいろな人との会話性が強まるのだろうか。
これがどういうことなのか、自分でもまったくよくわからない。・・・
Posted on 7月 3rd, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: リプラン&事業, 住宅マーケティング
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