さて明治14年の「清華亭」追撃であります。
とくにわたし的に和室の障子に嵌め込まれたガラスに惹かれた。
ガラスは建材として江戸期まで日本では発達することはなく、
明治の開国以降、異人館建築で開口部の建材の主役として
最重要な意匠要素になっていることに
日本の建築界は突然の大洪水・ラッシュのように出会った。
日本の木造建築では縁という外部とのあいまいな結界が「開口部」
とはいえたけれど、むしろ「中間領域」と言った方が正しかった。
もっと言えば明確な内外の感覚に乏しい建築だった。
障子や雨戸という建具レイヤーで「仕切っていく」という感覚。
窓、という明瞭な概念は乏しく、あっても宗教施設での装置くらい。
無双窓にしても、外部への視線装置という概念よりも
内外の「空気的連続性」の開放、遮断という二者択一装置に近い。
そこに「透明な壁」であるガラス建材が突如出現した。
ガラス窓によって外部景観を切り取るという西欧近代の概念に
初めて出会い目覚めたと言えるだろう。
ガラスは透明で視線が透過できることはもちろんだけれど、
もうひとつ、不十分ではあれ「気密」という概念をも建築にもたらした。
木と土と紙、一部石という構成の建材に対する化学組成の新素材として
空気を遮断できる「性能」を持っていた。
価格が高価であるにもかかわらず、合理的な選択をする北海道民には
どんな奥地の住宅でもガラス窓が採用されていた。
一時期の日本のガラスマーケットの先導地域が北海道だったとされる。
このブログでも和風建築に大胆にガラスを入れた「ガラス邸」という
建築を明治4年段階で札幌の一般大衆に「モデルハウス」として
開拓使が公開しガラス建具に驚く大衆の反応ぶりを書いたりした。
それから約10年後、この清華亭では洋室で「ベイウィンドウ」
という出窓からの3面開口というデザインが導入され、
さらに和室でも縁の最外側にほぼ全面ガラスの引き戸建具が入れられ、
縁の内側、畳の空間との障子建具でも、紙とガラスの組み合わせが
意匠として取り入れられている。
とくに上の写真の、外側の透明な雨戸と絵画のような障子という
まことにユニークな取り合わせが実現されている。
・・・しかしこういうデザイン感覚はあっという間に
たぶん、ニッポン人に広く一般的に受容されたのではないか。
明治という西欧文明の旺盛な導入とその咀嚼の巧みさを感じる。
そしてなお、このような建具の桟とガラスでの意匠性は
やはり日本人的な美感の伝統の方を強く感じさせるのではないか。
それぞれの和洋の開口部を外から見るとこんな見え方になる。
洋の方は、その形状が驚きを与えるだろうけれど、
和の方は「奥行き」を強く感じさせられる。
たぶん「レイヤー」の感覚が働いて、重層感が伝わるように思う。
もちろん「気密性」ということでは雲泥の開きとは言えるのだけれど、
こういう外部との関係の取り方というのは、
日本人の基本的志向性としては共感を持てる。
現代では、ガラス窓の断熱性気密性が進化してより大型化し、
欧米でも、むしろこうした視線開放感重視に向かってきている。
北海道の住宅は、このふたつの開口部空間性の間で
行きつ戻りつを試行錯誤してきたようにも思えるのですね。
Posted on 12月 28th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
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