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【20世紀初頭まで利用の竪穴住居 in 樺太】

写真は金曜日開催の「古代集落遺跡」セミナーで配布されたパンフから。
この写真は第2次世界大戦直前の1937年に樺太で撮影されたもので、
「20世紀初頭まで使われていた」という「廃屋」の様子。
網走市の「道立北方民族博物館」に所蔵されている。
人物がふたり写っているけれど、この人たちが「住んでいた」のではない。
しかし、周辺の状況なども含めてリアリティに満ちていて驚かされる。
いま北海道住宅始原の旅をこのブログで書き続けているけれど、
北海道で「洋造」建築がさかんに建設された一方で樺太では
こういった住宅が現役で利用されていたということ。

竪穴住居というのは人類に普遍的な住居ですが、
さすがにそこに現実に住んでいる様子というのは見たことがない。
人体と住居が対照されると想像力が強く刺激される。
11世紀頃には北海道アイヌ住居は「チセ」と呼ばれる平地住居に移行していて
同系統とされる樺太アイヌも同様なはずなのだけれど、
なぜこのような竪穴が使われていたのか。
「方形で屋根は土で覆われ、東側(写真右手)に出入り口とかまどがあり、
南側(写真手前側)に窓が開けられている」という説明。
20世紀初頭まで使われていたので創建年代もその時期だろうから
出入り口や窓の「枠」には製材された木材が利用されているようです。
しかしそれにしても、窓が付けられているので、
雨水はどのように遮断していたのかと驚く。
屋根は土で葺かれているけれど、たとえば萱のような繊維質で
被覆して「板戸」を造作設置していたものだろうか。
その場合、防水水密をどのように確保させていたのか、疑問。
竪穴住居の最大の問題は、防水・湿気対策が破綻して、
地盤面が泥状になって居住に適さなくなる、というように言われる。
地中の安定した温度環境を利用することが竪穴の普遍的メリット。
半地下として掘り下げるので、その掘った土を周囲に盛り上げて
雨水などの流入を防ぐという基本構造だけれど、
しかし入口などの「開口部」からの浸入をどう遮断するか、
いろいろ工夫があったように思うのです。
オホーツク文化の場合には、入口が高くしつらえられていた。・・・
このように窓があれば、確かに囲炉裏からの排煙には便利ではある。
やや小型でもあり竪穴をそのように「進化」させたものかもしれない。

いつも竪穴を見ると、その土を掘る作業の労苦を思う。
竪穴と「土器」というのはワンセットではないかとも思う。
土地を選んで竪穴を造作するとき、粘土質の土壌を目利きして、
慎重に掘る場所を選択することが多かったのではないか。
スコップ状に木材を加工して穴を掘ったのだろうけれど、
男たちはその穴を掘った後、木材で柱を建て屋根を造作していった一方、
女たちは、その土をこねて土器を造形したという光景を想像する。
その作業それぞれで、自分自身の出自のアイデンティティが存在して
固有の「建て方」「土器の製造法」が伝承されていったのではないか。
さらに囲炉裏やかまどで使う「火」にはその人物の固有性が込められていて、
祖先や一族からの伝承性が文化としてあったとされる。
その文化性から家の主人が死ぬと家自体を放火焼却する例も知られている。
人間と住居というものの精神的不離一体感を強く感じさせられます。

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