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【明治初年・屯田兵屋「住みごこち」と設計者】


きのうの続きです。琴似屯田兵屋の「設計者」は以下だという。
村橋久成(1842年〜1892年)幕末薩摩藩士、開拓使官吏。英国留学経験あり。
事跡からは特段「建築を学んだ」形跡は見られず、薩摩軍人として
明治戊辰の箱館戦争〜慶応4年/明治元年・明治2年(1868年-1869年)で
旧幕府・榎本軍と戦い戦功により400両の恩賞を受ける、とある。
明治6年(1873年)12月、北海道の七重開墾場に赴き、測量と畑の区割りを行う。
翌明治7年(1874年)屯田兵創設に伴う札幌周辺の入植地を調査、
琴似兵村の区割りを行う。明治8年(1875年)4月、七重開墾場と琴似兵村の
立ち上げを終えて東京に戻る。〜ということのようなので、
軍人・明治国家の高級官吏として関わったようなのだけれど、
建築は専門家とはいえないだろうと思われる。
設計者として名前は残っているけれど、建築計画は担当者が別にいて
かれは高級官僚として政府側との折衝責任者であったように見える。
その後官職を辞して数奇な人生を歩み、神戸で行き倒れて死んだという。
たぶん配下意識を持っていた明治の元勲・黒田清隆が葬儀を出した。
札幌市にある北海道知事公館前庭に村橋の胸像『残響』が建てられている。
屯田兵屋当初企画案では、煉瓦製の洋式炉が切られていたが、
実際には予算不足から一部土壁で純日本式の囲炉裏付きの兵屋に。
窓は隙間のある無双窓で煙出しからも雪が吹き込むなど
寒冷地対策はほとんど施されなかった。
琴似兵村の兵屋は「東京旧幕組屋敷足軽乃宅也」(松本十郎大判官)、
「薄紙様ノ家屋」(ホーレス・ケプロン)などと評価されたようです。
ケプロンの多くの発言からは北米式寒冷地住宅との乖離が読み取れる。
・・・付記すれば、村橋の下僚は旧幕府の建築担当役所である作事奉行の
組織がそのまま新政府の官僚機構として引き継がれた形跡が濃厚で、
一昨日記事掲載の「八王子千人組頭の家」との設計プランの酷似ぶり、
などを勘案すれば、徹底的にコストパフォーマンスを追求した
江戸幕府機構の合理的設計だったように推量可能かと思えます。
ただ、あいついだ戊辰戦争の戦費からの財政圧迫で
屋根が重厚な萱葺きから柾屋根葺きに変更、洋式ストーブから囲炉裏になど
設計後退を余儀なくされたものかも知れない。
そういう政策決定判断に関東人でもなく薩摩人があたっていたことは
本格的な日本寒冷地公営住宅事始めとしては残念だったかも知れない。

どうしてもこの屯田兵屋の住み手の感想が知りたくて探したら
以下、WEBでいくつかの証言を発見。北海道屯田倶楽部HPより。
〜屯田兵家族らの証言(一部・要旨・抜粋)
「天井が張ってなかったので屋根裏が直に見えた。冬になると柾釘先に
霜が着いて屋根裏が真っ白になった」(湧別・三浦清助・上湧別町史)
「屋根に煙出しが付いていたんですが、炉で薪を焚いたので煙たくて
いつも眼がクシャクシャ」(湧別・西潟かぎ、上湧別町史)
「5日がかりで永山へ入ったが来て驚いた。兵屋の中に蕗や笹がいっぱいで、
度肝を抜かれた。雪が五尺六尺と積もるのにも驚いた。雪中伐採木のため
兵屋が壊れたり死傷した者もあった」(永山将校・野万寿、北海タイムス)
「はじめて家に入ってみると土間に三尺 (約114cm) ある切り株が二つもあった。畳はカヤだった」(一已・原タマ、深川市史)
「家は粗末で焚き火に向かった前だけ暑かったが背中から寒くて煙たくて
吹雪の時は雪が入った。大きな囲炉裏に薪をいっぱいくべて寝たが朝起きたら、
蒲団の上に雪が積もっていたことも」(納内・北出長一、深川市史)

まさに前記の2人の「感想」がそのままに生活実感として語られている。
わたしの感覚で、この屯田兵屋の先行形態として旧幕府武家住宅との
類縁性を感じていたのですが、「東京旧幕組屋敷足軽乃宅也」(松本十郎大判官)
という当時の観察者の証言もあるようですね。
こういった住居から明治期北海道の住環境は始まった・・・。
この先人たちの「住みごこち」の感想は時代を超えて迫ってきます。

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