やや旧聞なのですが、スライドは2018年1月にお話しを聞いた
近畿大学・岩前教授の講演での発表からです。
住宅を主要なテーマにしてもう35年くらい。
住宅の作られようを取材し社会の趨勢、志向性を見る日々。
そうすると現代人が好む「生き方・暮らし方」について
自ずとある「方向性」も見えてくる。家を考えていけば
家族のありよう、人の生き方に行き着く。
で、日本社会は明治の開国以降、太平洋戦争にいたる特定時期を除けば
基本的にアングロサクソンが主導的な世界観、資本主義的価値感を
「普遍的近代」なるものとして受容してきたのだと思う。
鬼畜米英というスローガンの破滅から戦後は一転して
明治以降の基本路線、日英同盟・日米同盟路線に復帰したとも言える。
そのマザーとしてのイギリス社会で「孤独」担当大臣が任命される
というのは、なにかを強く暗示している。
日本の住宅は人口減少と言われつつ
新築棟数は徐々に減少してきているとは言え、アメリカなどと比べれば
まだまだ人口対比で棟数は多い。
英米では住宅ストックが多いのでリノベの方が活発。
日本では家の棟数は増えているけれど家族数はどんどん縮小している。
いつか2世帯同居も可能なようにと親は立派な家を建てたけれど、
子どもたちは同居には同意せず、どんどん「個住」傾向になっている。
したがって大きな家に老夫婦だけが増え、さらには死別による単身化が進む。
やがてそれらの残骸が大量の「空き家」になって来る。
都市部であれば整理して売ることも出来るけれど、地方ではすでにリスク。
その根源には、この趨勢、単身住宅の方向性が潜んでいるように思う。
生き方の価値感に於いて、家族とか「家」意識よりも
個人という存在に限りなくフィットさせる方向に力が働いてきた。
伝統的古民家とかを見れば、その生き方の価値感の主要なありかは
いまを生きている人間よりも、連綿とつながってきた「家」意識のほうが
はるかに規範として優越していた様子が明らか。
家には神聖空間がかならず意匠されて、
それがもっとも重要で格式を持った空間として保持されていた。
それに対し現代の住宅はほぼそうした神聖空間は顧みられず、
個室とか、個空間といったものが重要になって来ている。
家族の団らんというものは意匠されても、その先の
ご先祖様というような「つながり」からは遮断されている。
そういう住空間に慣れた人間は、そういう意匠方向性を再生産する。
まぁいまさら、大家族的な集住方向に向かうとは思えない。
こういった生き方・過ごし方が定着していって
どういう住宅の変化が顕在化するのか、深くウォッチですね。
Posted on 5月 28th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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