ようやく北海道でも新緑の季節がやってきて
これまで骨と皮だけのようだった木々がいっせいに芽吹いてきた。
木が葉を伸ばすというのは、その置かれた環境に対して
もっとも合目的的なやり方であることは自明。
この写真の木のように、成長に伴って自然に古層から、
先端部の最新層に至るまで、整然と秩序づけられるし、
葉っぱはもっとも陽を受けやすい場所を選択して葉を生長させる。
太陽というエネルギーの源に対して整然とした対応をみせる。
そういった様子は、同じイキモノとしての人間には「美」として
強く印象されるのだと思う。
自然が造作するカタチにはすべて合理性があり、
そして太陽に対して素直であることで美観にいたる。
たぶん、建築というものも最終的にはそういうことでしょう。
下の写真は仙台市博物館付属の茶室「残月亭」。
人間が建築を思い立ったときに最大のテーマは
人間のいごこちが究極的だったことは間違いがない。
その人間は自然の一部であり、同じく自然のものである木を
その材料として活用するのが一般化した。
そうすると、木本来が持っているだろう美観の根源というものに
建築を作ろうとする人間はいちばんアナロジーを感じただろう。
とくに人間が「見る」外観デザインに於いては
周辺に存在する木々との調和というものが目指されたに違いない。
ながくその場所に存在して、環境と相互につりあうような関係が
たぶん多くの建築者は考え続けたに違いない。
長期間ありつづけても、自然と調和できる姿カタチ。
日本の古来の都市建築である町家建築では
あらたに建築する場合でも、それまでの建築と調和させるように
その「作法」とか、たたずまいをリスペクトして
建てられ続けたというように聞く。
木を見続けていると、その姿カタチに常に「完全」があるように思う。
こういった完全に対してリスペクトして
それと調和させる建築的たたずまいをと、
人間は考え続けてきたのだろうと思います。
茶室というニッポン的そのもののような「簡素」の美。
その作る精神ではやはり、こんなイメージが素のままに
目指されてきたのだろうと思えます。
さて、現代われわれが作っている住宅建築は
はたしてそのようであるでしょうか?
Posted on 5月 14th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅取材&ウラ話
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