最近、いろいろな取材をしてきて気付くことは
好きなモノやコトに抱かれて暮らしたいマインドが主流化していること。
こういうのって、考えてみたらごく当たり前ですね。
誰もが、基本的にはそのようにしたいと考えている。
現代でこういうモノコトを実現させる具体的なものは家づくり。
これまではしかし、この志向性を満足させられた人類はごく少ない。
大部分はいろいろなしがらみ、ムラとかの共同社会の一員として
あるいは組織に隷属して生き延びることがふつう一般の生き方。
そしてその不自由を当然と考えて人生を甘受した。
第一、自分にとってどういう家具が、生活用具が「好き」なのか、
というようなことにまで「選択」余地が広がったのはごく最近。
資本主義社会、民主主義社会が実現して大量生産と機械化が
モノの価値を平準化して、きわめて「民主化」させた。
この根源的な欲求に対しての具体的な「解」が現代では示されつつある。
っていえば、ちょっとオーバーかも知れないけれど、
個人個人がなにを好きであるか、という領域まで住宅は関わることになった。
最近聞いたユーザー動向として、
自転車が趣味の人が、家を建てるに当たって、
その趣味生活上の「好み」や嗜好について話が合う,合わないで
住宅の作り手・相談者を選別する,という事例を聞いた。
その好みを建築的によくわきまえたプランを求めるのだという。
「注文住宅」というものの「注文」の枠が相当拡大しているのか?
ちょっと前まで、こういった部類のことは
住宅建築者にそれを求めることに、ためらいや遠慮があったのではないか。
そういうことまで「求める」ことが始まったと言えるのだろうか。
江戸期の「旦那」衆に多くの人間がなれるようになった、ともいえる。
まことに世界に冠たる「戸建て注文住宅文化」の国であると思う。
ふつうの世界は、その地域に似合った生活スタイル保守主義があって、
それに乗っ取った生活が可能な家というベースを住文化として提供している。
そういう意味で、環境に適合することがアプリオリであった。
もうすぐ世界はこの日本のユニークな「文化」に驚くと思う。
結果、これら住宅群には統一的街並み形成への志向は感じられなくなる。
こういう趣向性の世界すら一般レベルでビジネス化させる
日本の住宅取引慣行、社会の相互理解の深さにむしろ驚くのではないか。
わたしにはどうもそのように思われてならないのですが、さて?
Posted on 3月 2nd, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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