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【なぜ気候の厳しい北海道に住んでいるの?】

表題のように単刀直入に東大生の若い方から質問された。
きのう、ReplanWEBマガジンに掲載された「いごこちの科学WEB特別編:
リプラン編集長、東大の授業に招かれる!」記事のシメの部分。
このコトバ、実は北海道を代表する建築研究者にも伝えました。
わたしの反応と同じく、やや憮然としてホンネが出るなと思えた(笑)。
学生さんというのは、とくに東大生であればなおさら、
就職先も住む土地も基本的には「これから人生選択」できるのが前提条件。
そういった意識の違いというのがまずあった上で、
工学部生として、気候環境条件的に本州地域とは相当の違いがある地域、
年平均気温で16度対8度くらいの違いがある地域に
なぜ住み続けるのか、素朴に疑問を感じることもわからなくはない。
対して北海道に住み暮らす人間としてプライドが働く部分は当然ある。
しかしそれは置いて、この問いを自分自身、反芻して考えている。

事実としては北海道島を日本国家が本格的領土経営をはじめたのは
高々150年であり、それ以前のあいまいな領有といえる江戸期を含めても
最大限、400年くらいにしか過ぎないと思われます。こんな風に書けば、
ロシアや中国は国家を持たなかった部族社会アイヌとの交易記録でも
振りかざし、かれらなりの「領有実績」を主張するかも知れないけれど、
しかし冷静に考えればそういうことが事実でしょう。
150年以前から本格的に人口増を図り、領土経営をやり始めた。
余談だけれど、北海道神宮に祀られている神さまには
領土の守り神と領土経営の守り神がワンセットで入っている。
内陸部での農業振興・開拓開墾での「土地定住」の促進。
やはり熱帯原産のコメをこの風土でも栽培できるように品種改良できたことが
巨大な民族的生存維持策の成果だった。まずは「農業革命」。
それ以前は海岸線の点的な領有で、人口定住的な領土運営とはいえない。
この島を明治政府が血まなこになって、のちに総理大臣になる
薩摩閥の中核、黒田清隆が中心になって領土として開拓を始めたのは、
明確に対ロシア南下膨張政策への対抗という国家意志だと思います。
民族存亡に関わる国防問題が最大の契機だったのでしょう。
そういう「民族国家意志」は北海道の歴史を通してよく噴出する。
旭川は「軍都」と擬され、天皇の移住・行幸も考えられた事実が存在している。
ロシアに対して、日本民族国家としての明確な「領有主張」が底意にあった。
第2次大戦終末期、北海道のロシアによる占領は現実に起こり得た。
こういった歴史経緯が、とくに現代史を教育しないことで若い世代に共有されない。
そういうことがこの質問からは伺うことができる。

しかしいま考えている答は、「日本にとって北海道がある意味」です。
この島を日本国家は明確に国家意志として領土化したことで、
アメリカや中国とも並ぶような「多様な気候風土をもつ」「大国」になった。
専有的海洋面積を含めると日本の領域は世界第6位の大国とされる。
そして亜寒帯から亜熱帯まで多様な気候風土を抱え込んでいる。
結果、住宅政策としても多様な価値観を共有する国家社会が現出した。
本体的民族生活技術習慣からいえば、暖房エネルギー的にはローエネだが
素寒貧な住宅文化・技術を持っているに過ぎなかった。
それなのに幸か不幸か、北海道という亜寒帯地域を領土化したことで、
壁の概念の希薄な軸組構造の住宅技術しか無かったのに、
そこで「安定的に生存確保」するために、多くの先人は必死でそれを改良し
高断熱高気密な住宅に改変させる「住宅革命」を起こしてしまった。
この中核である「断熱気密」住宅技術は世界共通の現代必須要素技術であり
独自な軸組構造でそれが実現していることは世界的に珍しいかもしれない。
もとよりこうした技術革命は北海道の住宅関係者たちが主導的だった。
こうして開発された工法技術は、省エネ技術としていま広く共有されてきている。
ガラパゴス化することなく世界標準住宅思想を、われわれは共有できている。
その上でその設備的な部分では世界企業すらも生み出してきている。
・・・というような逆転的な発想も可能なのではないか。
いま、この東大生からの疑問に対して、このように考えられると思っています。
みなさん、どうお考えでしょうか?

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