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【遺跡建築の設計復元という知的作業】


さてきのう、仙台に寄って数箇所訪問後、札幌まで帰還しました。
訪問先は岩手県中部、宮城県北部だったので、
わたしの考古趣味の平泉の「柳の御所」遺跡のその後の様子を見学。
一度、この遺跡からの発掘が話題になったときに
訪問見学しましたが、それからでも相当時間が経っている。
発掘調査は歴年の予算範囲ですこしづつ進展するので
ほおっておくと、進み具合が急だったりして油断できないのですね。
ただ、記憶が鮮明でもなかったので、再度チェックしておりました。

この「柳の御所」遺跡は頼朝の奥州制圧の津波のような軍事行動で
ほぼ灰燼に帰した奥州藤原氏の中心的統治機構、建築群史跡。
前回見学したときには、威信財建築として「四面庇建築」痕跡が発見された、
という段階で見学していたのですが、
今回見学では、その「四面庇」建築のCGによる復元模型、動画が作成されていて
その説明には、「復元設計趣旨」が明示されていました。
以下、その部分の抜き書きであります。
〜●建物復元の考え方
2棟の建物の内部で行われていた「儀式」を想定しながら検討を進めた。
1 中心施設は儀式をする場所であること。
2 平泉館では貴族的、武家的な儀式の両方が行われていたと想定できる。
3 遺構からの分析や類似建築との比較の結果をふまえつつ、設計を進めた。
●建物の性格の想定
・東の建物  
広場に面して南北に長い建物なので、多くの人が対面できる作りであることから、
武家的な儀式に使われたと想定。
・西の建物
池と西庭に接している建物であることから、接客空間として使われた建物と想定。〜
というようなことで、たぶん歴史関係の知見と、古建築的知見が
それぞれの立場から推量を持ち寄って、こうした復元設計になったのでしょう。
わたしが見学していなかった間にこの平泉は世界遺産になったので、
より多くの学術的知見が集約されたものと推測します。
こうした研究成果の一端は印刷資料にもまとめられていて
きのう訪問したら、ことし1月に行われた文化フォーラムの資料をいただけました。
また、こうした設計趣旨に基づいて模型が作られ、それをさらにビジュアル化した
CG映像も連続的に上映されていました。

ふ〜む、確かに池に面した建物で貴族たちを応接するというのは、
まことに合理的な分析だと思わされるし、
また、平安末期の「政治」というものが「儀式」のやり方、それ自体での
ショー的な性格を持っていただろうというのも、膝を打たされました。
考古資料の蓄積、その分析から平泉権力機構の総体に迫る、
現代の想像力の展開をたいへん面白く見学させていただきました。

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