3日間東京、さいたまに出張していました。
きのうお昼過ぎに仕事がおわって、上野の国立博物館で「運慶」展を。
いやぁ、高校までの美術の教科書でしか見ていなかったのですが、
その実物の量感と存在感に圧倒されました。
わたしはどっちかというと、彫刻作品は苦手のほうです。
その上、宗教っぽいのは身体感覚をもてない。
そういうことで、仏像の類にはほとんど興味を持っていませんでした。
まぁ円空さんはまったく別物とは思っていたけれど。
宗教が芸術の巨大なパトロンであることはわかるけれど、
その宗教的体験のあれこれがわからなければ鑑賞の予備知識をもてない、
っていうようなことには、どうも理不尽さを感じる。
そんな思い込みが強いので、仏像などの作品鑑賞には興味がなかった。
そういうなかでは、「運慶」という個性だけには惹かれるものがあった。
そんなことで足を向けてみた次第。
行ってみたら、「入場待ち時間20分」とかいう長蛇の列(!)
会場に入ってからも、わたしが東京国立博物館の見学に来たなかでも
1−2を争うような大混雑ぶりでした。
最初のコーナーの「運慶のデビュー作・大日如来像」のあたりは混雑でギュー詰め。
こんなに日本人に人気だと言うことをはじめて体感させられた。
そういった大混雑ながら、見ているうちに徐々に
運慶さんの実作品を間近で見続けていると、やはり圧倒されてくる。
そんな気分が「国宝・八大童子立像〜1197年頃制作、金剛峯寺蔵」で爆発した。
すごい、感情移入の洪水が一気に押し寄せてくるようでした。
この展示コーナーになってくると、やや隙間もあって
この八大童子さんたちとまるで対話できるほどの距離感で見ることができる。
木像の眼には水晶が嵌入されているそうですが、
そのリアリティに満ちた人間的表情の数々に圧倒されておりました。
こういう作品を造形した運慶さんとごく親しく会話している気分に浸れる。
かれの感受性は現代人とまったく違いを感じさせない、リアリズム。
「童子」というだけあって、表情にかわいらしさがあって、
作家としての運慶さんの内面が深く感じられる。
通常はこういう仏像作品は所持する寺院などで、宝物として奥深く収蔵され
一般に見ることなどはまずムリでしょうが、
その息づかいが伝わってくるような近距離でふれあえるのは、ありがたい。
彫刻というモノ、仏像というものへのわたしの先入観念が一気に破砕された。
運慶さん、ほんとうにありがとうございました、という気持ち。
半ばほどには、平家によって灰燼に帰した奈良の再建に取り組んで頼朝を動かした
「重源」さんの国宝座像とも近距離で対面した。
日本歴史の中でも、その仕事でもっともリスペクトさせられる人物の
リアルな表情を見ることができて、まことにこころも洗われる思い。
ほかの仏像作品が運慶さん的リアリズムとはいえ宗教造形であるのに対して
この重源さんの像は、かれの息づかい、人間性まで感覚させられる。
日本仏教がながく民族に根付いてきた魂魄のようなものが伝わってくる。
武家の世がどういう意味合いを日本社会で持ったのか、
まさにまざまざとした「日本のリアリズム勃興」。
その人間的な生きた実相が体感できた気がしました。 面白かった!
Posted on 11月 1st, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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