さて昨日もちょっとふれましたが、吉野ヶ里の大型建造物。
写真の左側なんですが、これは・・・城ですね。
下側が、木柵で隠れていますが、高床式で3階建てになっています。
最盛期の人口が、5000人を超えていたという吉野ヶ里。
こうした集団を統御する権力の象徴、示威だったのでしょうか?
文字がやがて輸入され、歴史として遺されている時代の
日本の権力のあり方と、ほとんど変わらないといえますね。
たとえば戦国期の一地方権力のありようと比較しても、明確な類似性がある。
右側は2階の広間の様子。展示は会議?の様子を再現した人形群。
この写真中央にいるのが実質的な権力者なのでしょうね。
さらにこの上階、3階には、ほぼ卑弥呼とおぼしき
神懸かりする女性による、占いか、祈祷のシーンが展示されています。
このあたり、日本的な権力の有り様を、かなり意識しての想像なのか、
それともかなり研究が進んで、ほぼ史実とおぼしき演出なのか
いずれにせよ、かなりリアリティが感じられます。
たぶん、このように日本の権力は構成され、民衆を圧伏してきたのでしょう。
天皇制に繋がってくる権力システムの素型があります。
また、この区画に至る順路は、複雑に道が曲がっています。
これも、日本の城郭の作り方の基本を押さえてもいます。
防御のため、敵の進入路を複雑にしているのですね。
ちょっとうがった見方をすれば、
この吉野ヶ里はいちはやく国立公園的に整備されましたが
一方で、青森三内丸山の「縄文の都」はいまだそこまで保護はされていません。
今に繋がる日本型権力として、吉野ヶ里に強いシンパシーを感じているのかも知れません。
って、まぁ、単に遺跡研究が進んでいるかどうか、の違いだけなのでしょうが。
ここが邪馬台国だった、という決定的な証拠は出ないまでも
どう考えても、邪馬台国論争にたいへん大きなインパクトを与えた遺跡です。
これからも、何度も訪れて、ふたたびいろいろな体験をくれそうな
吉野ヶ里の再訪問でした。 息子よ、付き合ってくれてありがとう、な(笑)。
さて、きょうで2005年もお仕舞い。
あんまり意味はありませんが(笑)、無休でブログ書き続けてきています。
こうなったら、ブログのギネス記録に挑戦と言うことで
<そんなの、まだ、ねーだろーが!>
新年からも、頑張って書き続けますので、どうぞよろしくお願いします。
みなさん、よいお年をお迎え下さい。 ではでは。
Posted on 12月 31st, 2005 by replanmin
Filed under: 歴史探訪
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.