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吉野ヶ里再見_4

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さて昨日もちょっとふれましたが、吉野ヶ里の大型建造物。
写真の左側なんですが、これは・・・城ですね。
下側が、木柵で隠れていますが、高床式で3階建てになっています。
最盛期の人口が、5000人を超えていたという吉野ヶ里。
こうした集団を統御する権力の象徴、示威だったのでしょうか?
文字がやがて輸入され、歴史として遺されている時代の
日本の権力のあり方と、ほとんど変わらないといえますね。
たとえば戦国期の一地方権力のありようと比較しても、明確な類似性がある。
右側は2階の広間の様子。展示は会議?の様子を再現した人形群。
この写真中央にいるのが実質的な権力者なのでしょうね。
さらにこの上階、3階には、ほぼ卑弥呼とおぼしき
神懸かりする女性による、占いか、祈祷のシーンが展示されています。
このあたり、日本的な権力の有り様を、かなり意識しての想像なのか、
それともかなり研究が進んで、ほぼ史実とおぼしき演出なのか
いずれにせよ、かなりリアリティが感じられます。
たぶん、このように日本の権力は構成され、民衆を圧伏してきたのでしょう。
天皇制に繋がってくる権力システムの素型があります。
また、この区画に至る順路は、複雑に道が曲がっています。
これも、日本の城郭の作り方の基本を押さえてもいます。
防御のため、敵の進入路を複雑にしているのですね。
ちょっとうがった見方をすれば、
この吉野ヶ里はいちはやく国立公園的に整備されましたが
一方で、青森三内丸山の「縄文の都」はいまだそこまで保護はされていません。
今に繋がる日本型権力として、吉野ヶ里に強いシンパシーを感じているのかも知れません。
って、まぁ、単に遺跡研究が進んでいるかどうか、の違いだけなのでしょうが。
ここが邪馬台国だった、という決定的な証拠は出ないまでも
どう考えても、邪馬台国論争にたいへん大きなインパクトを与えた遺跡です。
これからも、何度も訪れて、ふたたびいろいろな体験をくれそうな
吉野ヶ里の再訪問でした。 息子よ、付き合ってくれてありがとう、な(笑)。
さて、きょうで2005年もお仕舞い。
あんまり意味はありませんが(笑)、無休でブログ書き続けてきています。
こうなったら、ブログのギネス記録に挑戦と言うことで
<そんなの、まだ、ねーだろーが!>
新年からも、頑張って書き続けますので、どうぞよろしくお願いします。
みなさん、よいお年をお迎え下さい。 ではでは。

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