ことしはじめて「高野山」に参詣して、一種の邂逅を得ています。
直接、訪れてみたいと思ったのは、わが家の宗旨が
真言宗であることで、父母の菩提を弔うなかで、
もとの居住地の近隣の菩提寺の住職さんといろいろ話すうち、
その開祖である空海さんに興味が深くなったことがあります。
で、その上で司馬遼太郎さんの「空海の風景」を電子書籍で読んで
大いにその事跡と、日本人と仏教、国家形成と仏教について
深い興味、探究心を持たされたことによります。
長編の小説や本というのは年に数作を読むのが紙の書籍では
やっとというのがこれまででしたが、電子書籍の出現はわたしにとって、
「読書革命」をもたらせてくれた。
電子書籍だと、紙の呪縛を離れて、文体自体がさまざまなデバイス間で
繋がりながら、集中的に読書を進めることが出来る。
このことは実に大きいことだと深く認識させられています。
とくに出張などの移動交通手段のなかで過ごす時間が多いと、
この「デバイス間移動読書」というのは、実に魅力的な時間を作ってくれる。
司馬さんの「空海の風景」はやや難解そうで、紙の本も持っていたけれど
どうにも時間配分が考えられずに読破できなかったのです。
こういった電子書籍読書体験の結果、知的好奇心は
大いに拡大してきたと思っています。
おっと、やや余談になってしまった(笑)。
で、高野山を初めとして根来寺や法隆寺なども巡り歩いた。
やはり関西圏を巡り歩けば、否応なく「仏教」という世界宗教が近しい。
仏教という宗教は、世界宗教になったのに、
その誕生の地・インドでは早くに廃れ、その最大の受容先であった、
中国でも繰り返された「仏教弾圧」があり、直近の「王朝」である、
共産党支配のなかで、徹底的にその文化が破壊され、
今日の世界では、ほぼ日本が中心的な位置を占めているとされる。
中国は歴史に一貫して「中華思想」が支配してきた国なので
その専制権力にとって、そのさらに上位概念としての「世界宗教」というのは
生き延びがたかったということなのでしょう。
なんでも自分が優越していると歴史的に言い続けている中華思想には
まったく迷惑させられるのは、これもアジア世界の特徴。
その「中華権力」の盛衰で、周辺国の悩みも増えたり減ったりした。
であるのに、なぜ、同じく「小中華」を志向した日本では
仏教は生き延び続けたのか、そのことが大きなテーマとして
だんだん膨らんできたのであります。
司馬遼太郎さんは産経新聞勤務時代、仏教文化担当者だったそうで、
その知的積層はやはりハンパないものを感じさせてくれる。
日本人の精神史の中でこの世界宗教との関係が
一番基底的な部分を形成してきたことは疑いがない。
このテーマは想像が膨らんで実に楽しい。
でもまぁ、これは「たゆとう」がごとくで、実体は見えがたく、
しかしそういう見えがたさが、また魅力的だと思わされます。
<写真は根来寺と高野山・金剛峯寺にて>
Posted on 10月 6th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.