ふたたびきのうの続編です。
国泰寺は桜の名所とされているそうです。
ほぼ桜前線日本最北端ということになるでしょうが、
その桜の由来が一枚の看板に書かれていました。
それによると、創建1804年から28年後、
本堂と庫裏を修復するときに、
「厚岸場所」請負人、山田分右衛門が奥州石巻から
移植したと伝えられる古木と言うこと。
桜は、移植され続けていくものなのだそうで、
当時の全国の桜の名木のなかで、北方の気候風土に似合うと想像された
奥州石巻から、持ってきたのでしょうね。
この記述から、いくつかの類推が浮かんできました。
ひとつは、創建から30年を経ずして修復が行われたと言うこと。
一般的な経年的なメンテナンスであれば、
わざわざ桜の古木の移植など、付随的に計画しないでしょうから
かなり本格的な修復をせざるを得なかったのだろうということ。
まぁ、これは本来、居住用ではない宗教的な建築なので
建築の常識的にも、通風換気を重視して
木材の耐久性を優先する工法で建てるのでしょうが、
そういうふうに考えて建てても、寒地では劣化がすさまじかったのではないかと推察します。
まぁ同じように建てられているに違いない僧侶の生活領域の
「庫裏」の建築的劣悪さはものすごかったでしょうね。
マイナス30度に平気で下がる上に、太平洋からの寒風が吹きすさぶのですから
そういう条件下で、隙間換気をむしろ重視した建築では
立ち行くワケもなかったでしょう。
次に、経済的な側面ですが、
こういう格式を誇る寺ですから、
幕府官営の寺なので、この地域の最高権力者、
このときには「場所請負人」がそれに相当したようですが、
かれからの援助があったということ。
まぁ、官営なので基本的な建築費の部分は公共事業でしょうが、
こういった桜の寄贈などは行われたでしょう。
場所請負人とは、漁業を中心的な経済基盤とした北海道での
独特な収奪方式で、漁場を経営する権利を商人に請け負わせて
幕府や松前藩はその上前をはねるという構造だったのですね。
江戸期の独特な官と、商人との関係なワケですが、
そもそもこういうシステムが発生したのは
幕府が松前藩から蝦夷地の経営権を取り上げて直轄地にしたことがきっかけ。
で、公共が直営したら散々な経営実績だったのです。
それで、その財政負担に音を上げて、商人に払い下げた、ということだそうなのです。
で、そういう経緯なので商人たちの決算報告でも
いやぁ、ことしも赤字でございまして・・・、
というようになっているのが一般的。
なぜかといえば、黒字を出せば、商人側から見て何一ついいことがないのです。
残された大福帳上ではそうなっているのですが、
どう考えても、利益にならないことはするわけがない。
それにこの請負権利の取得には相当、執着している連中が多い。
その辺はあうんの呼吸で、官と民の談合、「◎○屋、おぬしも悪よのう、むふふふ」
というような世界が赤裸々に展開したのではないかと想像されます。
そういった請負場所のことが透けて見えてきます。
また、この桜が石巻から来たと言うことは
この当時、太平洋まわりの航路も使われていたのかも知れないなぁと
想像が起こってきます。
一枚の立て札ですが、
いろいろな事情が推察されて、しばし、立ち止まってみた次第です。
北のくらしデザインセンター
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び
Posted on 12月 5th, 2009 by replanmin
Filed under: 歴史探訪
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.