写真は小石川後楽園の外周です。
東京はご存知の通り、江戸を基盤にした計画都市。
街割り計画は、家康の時代までさかのぼる。
源江戸の都市計画って、痕跡としては、
旧江戸城地域や、いわゆる「大名庭園」などの計画緑地が残っている。
そういうなかでも、後楽園は都心にほど近く、
その後、日本の野球のメッカとしての場所になって
日本の文化のある意味では基盤を形成したと思う。
なぜ、初期の都市計画の時に、こういう庭園緑地を作ったのか、
自然的に、大火の時の緩衝地帯として考えたものか、
都市化するなかの、緩衝地帯として考えたものか、
いろいろ面白いと思っています。
で、こういう緑地の存在が、はるかな後世になって
貴重な中心街緑地として、大いにその存在が活かされる。
京都や札幌と違って、
東京は、王城都市としての碁盤の目のような街割りになっていない。
江戸城も、宮殿建築ではなく、区分としては「住宅」なんだそうですが(笑)
住宅を中心としているからか、
このような緑地計画はけっこう、豊かに残されていると思います。
江戸の初期に、ブームになったという大名庭園って、
しかし、なんとも面白いことが行われたものだと思いますね。
庭園を造ったとしても、どのような「効果」があったのか。
Wikkipediaをひもといてみると、
大名庭園の概要
江戸時代初期にしばしば王朝風と呼ばれる平安時代以降の伝統的な、または安土桃山時代に発達した豪華絢爛な池庭や枯山水、あるいは禅院で発達した枯淡な枯山水や露地から出発し書院造に影響を与える茶庭など多くの様式が並存する時代であり、これらの様式が集大成される回遊式庭園を誕生させる。大名庭園は江戸をはじめとする各地諸藩の大名の邸宅や別荘に設けられた庭園の総称であり、様式名ではない。様式としてみるなら大名庭園は上記の様式いずれかに分類される。
各藩は大名庭園を遊興や、日本武術の馬術用馬場や弓術用の的場、回遊形式を取り入れた庭園の構造から散歩・散策などを楽しむ空間として利用していた。また造園技術に関して各藩間で技術交流が行なわれ、園芸学や博物学などもそれに伴って発達した。池のまわりを回遊して観賞するように造られ、庭園内の景観として自分の好む名勝地をモチーフとしたものが配された。それらはいずれも庶民の遊観所で、こういう景観をひきしめるためにも、また利用上からも、休憩所としての茶屋や御堂を建て、これらの建物と庭景観とで局所局所をまとめ、順路にそって回遊するようにできている。時間とともにつぎつぎと展開されていく変化の多い景観は音楽に比較される。広々した池面に出る前に必ずうっそうと茂った木立を通り、山々を通りぬけるときも変化にとんだ建物や橋で飽かせることがない。
当時の江戸は、面積の約50パーセントがこのような大名庭園と大名屋敷で占められていたとされる。これらの庭園は明治期にいったんは存亡の危機に瀕したが、当時の上流層の大邸宅に蘇る。現在東京都心に残り、名称史跡に指定される日本庭園や新宿御苑や戸山公園、水戸徳川家下屋敷であった墨田公園内日本庭園や鍋島松涛公園などの公園のいくつかは、これら江戸期の大名庭園跡地が利用されているほか、明治期に称された三大公園(日本三名園)はいずれも地方都市に残る大名庭園跡である。
っていうような解説。
なんと、江戸の敷地の半分がこれらで占められていた(!)。
まぁ、しかし、これを読んでも、「なぜ作ったのか」という疑問には
明確な答がないと思います。
考えられるのは、このような「公共事業」を積極的に起こすことで、
経済面での活性化を図った、というようなことでしょうか?
日光の造営などは、たぶん、
そのような目的が大きかったのではないかと思っているのですが、
こうした大名庭園も、似たような目的で、各大名の経済力を
軍事に向かわせないための公共事業として、振興が図られたものでしょうか。
まぁ、このような都市計画の結果、
なんとか、21世紀の今日でも都市機能として使える街になっている。
そういうものとして、子孫に知恵を残していると思います。
北のくらしデザインセンター
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び
Posted on 10月 28th, 2009 by replanmin
Filed under: 「都市の快適」研究
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