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人の生きる環境と植栽、庭

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写真はわが家のネコの額ほどの「庭」、植栽。
わたしは自分の人生を選択するのに、
都市の中の環境を選択して、利便性と環境性の調和として
いまの環境を主体的に選び取ってきました。
居住環境というのは、この国、社会、現代という時代のなかで、
それぞれが主体的に選び取ることが出来る事柄だと思います。
すこし立ち止まってみると、自分にはもうちょっと
庭木を楽しみたいという根源的な欲求があったように思います。
事務所の方には、合計10坪くらいの庭があって、
いろいろな木々や植栽をあれこれと管理しているので、
個人としてのそういう欲求は、ほぼ満足はしていると思うのですが、
たまにこうして、情けない自宅の「庭」を見ると
多少の後悔の念がないこともないのであります。
いま、この2つの植栽だけに絞り込んで、
それを剪定管理してきているのですが、
先日、娘が帰省してきた折に、帰っていく間際、
この左側のツツジの赤い色づきを見て、うれしがってくれていた。
そういう様子を見ていて、
そういえばわが家にはこどもがふたりいて、
この庭の植栽もふたつだなと、ふと思い至っていました。
秋にはこのようにツツジは真っ赤に染まってくれて、
まるで娘のようだし、アオキの方は枝振りも奔放で
その楽しい個性がまるでやんちゃ坊主を感じさせてくれる。
そうすると、いまは家を離れているふたりの子どもたちが、
この植栽たちとオーバーラップして見えてきて、
「あぁ、もっと手を掛けてあげたいな」というような気になってくる。

たぶん、家を建てることのいちばん大きな意味合いは、
子どものすこやかな成長を願って、ということが大きいのだと思います。
子どもが生まれたときに、記念に庭に木を植えるという習慣があるけれど、
あれって、やはり人間に根源的に存在する思いを表しているように思う。
狭い敷地で庭を確保することはできなかったのですが、
もっと広い庭で、いろいろな樹木・植栽にたっぷりの時間を掛けて
その成長を祈り続けるような、
そういった人生時間も、貴重なものだと思っております。
このあと、時間が出来たら、もうちょっと考えていきたいです。

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