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松前と北海道史

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松前は、札幌から遠い。
先日、用があって道南を訪れた折、
やや迂回して、一度は行ってみたかった松前を目指したのです。
カーナビでは、札幌から最短距離で350km以上ある。
中山峠を南下して、洞爺湖をまっすぐ目指して、
途中から豊浦付近で高速に乗って、
八雲で高速を降りたら、日本海側の熊石に抜けて、そこから一路
日本海岸道路を南下するのだけれど、
江差・上ノ国を通り過ぎたら、あとはほとんど集落はまばら。
うねりつつ続く海岸線の道路を走り続けるのは辛い。
そんな先に、ようやく松前はある。
一方で、函館までも約100kmの距離。
地理的な位置関係を見てみれば、確かに本州から海路を取って
もっとも距離は短かそうだけれど、
北海道全域、島としての北海道の全貌を把握する地理的な環境にはない。
しかも、猫の額のような海岸線の平地に張り付くように
城が建っているけれど、後背は険しい山岳地帯がそびえ立っている。
この地に、松前氏という藩権力が存在していたのだけれど、
いかにも、その想像力のなさにはあきれざるを得ない。
江戸期でも、幕府が北海道全域に対して測量したり、
アイヌの人々に対して、いたわりのある政策を直接支配地で試みたりしているけれど、
松前氏には金輪際、そういう発想はなかった。
ただひたすら、アイヌに対して恐怖し、交易でかれらを搾取することしか、
考えが浮かばなかった、無駄な時間を過ごし続けていた。
この地を初めて訪ね歩いてみて、そう思わざるを得なかった。
もう少し発展的な考えを持つ権力であれば、
当然その首府は、函館にしたであろうし、
農耕は米作には適さなかったまでも、畑作など、試みるに違いない。
そうではなく、幕末に至るまで、
ただひたすら、アイヌからの襲撃を恐怖し、
このひたすらに防御的な場所にしがみつづけてきた。
幕末期、榎本武揚軍が松前になんの価値も見いださず、
また、無視して函館に五稜郭を造営して本拠地として
「蝦夷共和国」を計画していたことから比較して、
300年間、なんの「施政方針」も持たなかったこの藩というのは
この島の歴史にとって、どういう価値と意味を持っていたのか、
どうにもやりきれないような思いを抱く。
松前氏は、その出自において、奥州藤原氏とのつながりも濃厚な安倍氏を出自に持つが、
途中、戦国期前後に家臣であった蠣崎氏が
乗っ取る形で、権力を簒奪している。
このとき、実質的に権力を握る過程では、どうもアイヌの有力者たちを
だまして、殺害するような手段で権力を握ったのではないかと推定されるのですね。
その後の、ひたすらにただただ、防御的なかれらの姿勢を見ると、
どうも、そのような想像をかき立てる気がします。
なんにせよ、この北海道の土地利用とか、開発というような部分では、
かれらはほとんどなんの役にも立っていない。
権力というものの意味を深く考えさせられる松前訪問でした。
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