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播磨灘

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きのうの続きです。
わが家の家系で、日本の歴史に登場してくるのは
室町期の播州の守護、赤松氏の経済官僚としてのようなんですね。
だいたい確かといわれているのですが、
学者さんではないので、まぁ、家系伝説という域は出ないのですが・・・。
で、紆余曲折があって、播州の「英賀浦」という中世の港湾都市を
支配していたということが伝えられているのです。
赤松氏は、途中で直系子孫が途絶えたので、
その家を引き継いだかたちになったともいわれています。
家系っていうのは、けっこう途絶えるものなので、
まぁ、ありうることでしょうね。
わが家系にしても、江戸期には夫婦ごと外部から後継者を移植したりしています。
法人的な家を存続することに意味があって、
必ずしも、血がつながっていくことにそれほどのこだわりがない、
っていうようなことのように思います。
戦国期には、播州は織田勢力圏と、毛利勢力圏の角逐が見られた地域ですね。
司馬遼太郎さんの「播磨灘物語」に、黒田官兵衛の戦争の相手方で
この「英賀」の勢力のことが触れられています。
毛利からの援軍と協力して黒田官兵衛と戦うのだけれど
かれの巧緻な作戦に、まんまとしてやられて敗戦しております。
その結果、なのか、その後、家系は広島県福山市近郊に移っていっています。
毛利のために戦ったので、その勢力圏に避難というか、
移転せざるを得なかったものと思われます。
ただ、それも一族のうちの一部、ということのようで、
敗残軍は、散り散りになったということなのでしょう。
そんなことなので、わが家の伯父とか、
よくこれらの地方を行脚していたということです。
北海道に移転してくる、というのは
いろいろな意味でやむを得ざる決断だったのでしょうから、
郷里との関係も、疎遠にせざるを得ない事情があったことでしょう。
そういう「失われた消息」を求めたくなる、子孫の思いの発露ですね。
いろいろな家系伝説の類の調査活動を近親者が行ってくれて、
いま、書いたようなことが、どうも信じられそうな経緯のようです。
歴史といっても、別に戦争に勝った人が「偉かった」というような
山岡壮八さんのような史観はあり得ないと思うのです。
結局は、経済的な基盤的な部分での激烈な競争があり、
その軍事的表現が、歴史上の「戦争」の意味合いであったのだと思います。
一時的な勝利を得ても、家系という意味では存続しなかった
豊臣家というのは、勝利者なのか、敗者なのか、
見方はなかなか難しいと思います。
歴史の中の局面局面で、先人たちがどんな考えを持ち、
どんな行動をしてきたか、それを考え、
その中から学んでいくことが、意味があることなのだと思います。
いまとなっては、まったく縁遠い世界になっている
こういうジオラマの播磨灘。
いまは、阪神と戦う北海道日本ハムファイターズの応援の方が
似合っているわけで
まことに転変多い歴史だなぁと、思わされますね(笑)。
なんか、いかにもブログ的な、個人的なテーマで
大変恐縮です。
つかの間のゴールデンウィークということでお許しください。
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2 Responses to “播磨灘”

  1. 福山市出身昭和36年生まれ です。
    自分の生まれた土地のことで知らないことが
    たくさんありますね。
    おもしろいお話ありがとうございます。

  2. そうですか。福山出身の方ですか。
    北海道の人間が、書いたことに地元の方からこういう反応があるのは、面白いものですね(笑)。ありがとうございます。

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