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散華

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沖縄にいる娘から、久しぶりのLINEの便り。
まだサクラも咲いていない北海道の父母に
「今年最初の花火大会だよ」と知らせてきた次第。
人類が言葉をコミュニケーション手段として活用してから
紙に情報を書きしるしての手紙での交流の歴史は
郵便制度が始まって以来として考えて、日本で約150年くらい。
それ以前の飛脚による情報交換って、
たぶん、一般民衆には生活文化として存在しなかっただろうけれど
それも計算に入れて遡ってみても、しかし300年くらいでしょう。
そう考えると、コミュニケーション手段が、ITに置き換わってきた時代に
わたしたちはいま、過ごしていて、
こんなふうに情報交流できるようになったことは、
大変喜ばしく、また、もっと進化し続けていくのでしょうね。
手紙というような形式に囚われることは、たぶん、なくなっていくのでしょう。
変化は不変ということの方が確からしい、・・・しかし。

写真を見ていて、
高校の頃の友人の「現代の散華」という「現代詩」を思い出した。
学生運動華やかな時代で、わたしたちの高校で
扇動者・オルガナイザーをやっていたヤツがいて、
父母とも前衛芸術家という家庭環境でもあり、
学生運動もそのような芸術家としての素質の発露と見ていたが、
案の定、バリケード封鎖している学内の壁一面に
ある日、「現代の散華」という「現代詩」を書き殴って、出奔した。
その「壁新聞」のようなメッセージは、運動指導部からさっそく
ペンキで完璧に塗りつぶされてしまった。
でもそれはまさに、わたしたち友人たちへの「あばよ」という
「置き手紙」のようで、中身はもう憶えていないけれど、
強烈な印象は少年の日の記憶に深く残った。・・・
学生運動からの明瞭な逃亡宣言だったのだけれど、
ある種、「おお、ついにやったか」というような気分で、
そのことを受け入れたような気がしていました。
その上、かれの父母は駆け落ちして結ばれていたのだそうで、
かれもまた、高校生ながら、女子のある同級生と駆け落ち逃亡した・・・。
きっと、なにかのトラウマのように追体験してみたのか。
人はいろいろなしがらみのなかで、もがくように行動するけれど、
結局、ヤワな内面を抱えて、行き詰まってしまうこともある。
そういうことに、むしろ、強い共感にも似た心情を持っていたことに
最近になって、深く気付かされている・・・。
しょがないヤツだけれど、愛すべきヤツでもあった、みたいな。

なんか、ヘンなブログになってしまった(笑)。
単にたのしい花火の写真からの不埒な妄想であります、お許しください。

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