さて、きのうの「街並み問題」、実に多様に論が展開して
多くのみなさんから、すばらしいご意見が寄せられました。
住宅雑誌を発行しているものとして、これは拡散しなければと
責任感を感じさせられます。以下、発言の要旨をまとめました。
・景観の問題以前にコミュニティの問題。
雪かき(道路への雪だし)、路上駐車、ゴミ出し、
町内会費の不払いなど、景観以前の問題が山積。
街並みをつくるという共同意識から問題が解決するかも。
・暮らしの豊かさは、小さな足下にあるのだと思う。
・サンフランシスコでは、住所番号のプレートすら印象的。
補助金で街路整備した町は人工的で薄っぺら。
ごみの少ない町では自然に家の前を掃除している。
札幌も昔はそうだったが、公共サービスが他人事になって
変わってきたような気がする。
・「他人事になった公共サービス」って、この問題の核心に近い。
日本人は本来、公共へのリスペクトが強い。公共負担としての
租税そのものへの反乱はなかったと網野善彦さんも書いている。
戦後の社会は、その美しい公徳心を忘れさせる過誤を犯した。
肥大化した「個人主義」がねじ曲がって、
自由にはその下に責任があることを忘却してしまっている。
・欧米の街並みでは価値に直結するからルールが相当厳しい。
・分譲マンションは街並みの重要な要素なので
修繕計画・積立金徴収・管理人を雇って街並みを維持させている。
そうさせる重大な決意をもって区分所有法が生まれた。
一方、戸建て住民は自分の住宅の塗り替えもしないで、
日照権や眺望権を言い立てるところが街並み問題の象徴。
「注文」を「わがまま」と解釈した住宅業界は、
街並み破壊産業ではないか。
・日本の戸建て住宅の「街並み無視」問題は、根が深い。
諸外国でここまで無秩序なデザインが放置されているのはない。
責任感の弛緩した自由・権利が、好き放題として錯覚されてきた。
「恥ずかしい」という自己意識くらいは持つ必要がある。
・重要な社会資本を「オンリーワン」の「わがまま住宅」というように
プロデュースしてきたことが「景観・街並みの使い捨て」に
つながった。やがてオーソドックスデザインに回帰するだろう。
・建築協定の第1号が田園調布。しかし相続問題で協定は崩壊。
日本の住宅は不動産。代が変わると、維持できない。<以上>
写真は、飛騨高山の街並みの様子であります。
わたしたちはこのような熟成した街並みも文化として持っている。
まちづくりの基本原理に、なぜこうした良き先例を持ってこないのか。
都市造りについては、明治以前までの日本人の方が
はるかに優秀な結果を創りだしてきているのではないかと
思われてなりません。この点ではむしろ退化している。
たぶん、計画を作る基本的社会システムに狂いがあると思うのです。
さて、日本人の気付きはどのように現れてくるでしょうか?
Posted on 4月 5th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 「都市の快適」研究
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