きのう書いた「累積人口」という意味合いですが、
いろいろに新しい考え方を呼び覚ます機縁になりうる知見だと思っています。
その同じ統計推定を援用すると、ホモサピエンスの類的累積は、
700〜800億なんだそうであります。
で、加速度的に人口は増え続けてきたけれど、
その間で、平均寿命もどんどん高齢化してきた。
そしていま、いわゆる先進国では、出生率は軒並み下がって来ている。
これはなにを表現しているのだろうか?
というのが、考える必要のある大テーマだと思う次第。
4万年かかって今日まで生き延びてきた現生人類が
なぜ人口爆発し、そしてそれから機をそらさずして
一転して人口抑制的になってきたのか、
これは社会的要因を含めて、DNA的な類的選択ではないのかということ。
たぶん、そのことと高齢化は一体不可分のことだろうと思う。
人類社会にとって、子どもをどんどん生産しなくても
社会が維持できるように変化してきたことを表しているのだろうか。
縄文が始まってそれまでの旧石器といちばん違ったのは
人間が長寿命化したことだと言われている。
それまでは、基本的には狩猟民だったので、基本的には敏捷性が要求され
常に移動する生活だったので、体力勝負だったのが、
食料が森から採集するのと海生動物の漁に変容したことで
定住的生活が可能になり、年を取っても社会に有用な貢献ができるようになった。
それは同時に、経験知を後世代に残していくことが可能になった社会だという。
というような説を聞かされたことがあるけれど、
そのような大きな変化がいま、来ているのだろうか。
いま、ホモサピエンスは、何度目かの大きな変容を迎えているのかも知れない。
栄養採取がかなり平均的に進み、衛生思想や病気の解明が進んで
一般的に言われる人間の肉体の機能性限界120年に
先進諸国のひとびとの寿命が近づいてきている。
そうなってくると、どんどんと世代交代して若い人類を増やすばかり必要性が
種族レベルで必要性をなくしてきているのではないか。
そのように思考してくると、
現代に起こっている事柄の意味も決定的に見えてくるような気もする。
縄文の人々が、その社会の高齢者が
どんな社会的分業を担ってきたのか、
そのようなアプローチが、現代社会でも、たとえば生産手段の多様化
あるいはロボット技術の飛躍的進化を踏まえて
もう一回、試みられていく必要があるように思われる次第。
そういえば、宋文洲さんは、少子高齢化について
一時的な種族保持のためのDNA的な調整に過ぎませんよ、と言っていましたが
別な見方ももうすこし、考えていかなければなりませんね。
Posted on 7月 8th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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