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読書傾向と人間性

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きのう、わたしの読書体験履歴というか、
よく読んだ作家履歴をふり返って見ましたが、
おおむね「作家」としては、大江健三郎・埴谷雄高・司馬遼太郎、という
この3人だったことは事実だと認識しています。
時間的に言えば、高校〜大学までで前記のふたりは卒業しましたが、
短かったとはいえ、青春期に沈み込むように読んでいたし、
影響を受けていた、という意味では長く心に残り続けている。
そんな高校時代からの読書傾向を抱え続けて学生生活を過ごし
その後、東京で就職すると同時に、そういった世界から離脱したように
思えてなりません。
明るい顕教の支配する仕事の世界では、大江健三郎・埴谷雄高的な
密教的世界観ではまだるっこく、精神を支えきれなかった。
というか、現実感覚との乖離がすさまじすぎたと感じていました。
わたし自身は商家の末裔であり、基本体質として違うのかも知れません。
その後の長い年月は、司馬遼太郎さんの歴史文学、エッセイを耽読してきた。
それは司馬さんの生い立ちを知るにつれて、
体質的にも親しいと感じ始めた部分も大きかったように思う。
一時期は思惟の袋小路にハマったけれど、結局
歴史が大好きだった少年の日のこころに戻ったような、
そしてそれが深い人間洞察に繋がっていく、
大きな部分だと認識できたのだと思っています。
司馬さんの描き出す歴史のなかのひとびとは、
市井と現実感のなかで生き生きと呼吸していると感じた。
密教的に人間の不条理を見て批判的な内面分析に耽溺するよりも、
もうすこし人間肯定的な、理性的な知性のなかにいたいと思った。
そのように思い至ったとき、歴史を生きた人びと、
先人たちの生き様を、深く知っていきたいと思ったのだと思います。
それは、現実のビジネスの世界で、
いま現実にドラマを紡いでいる実感を感じていたことも大きい。
ひとと話すとき、やはり顕教的な普遍性にこそ
人間世界の真実の大部分はあると思えたのですね。
そしてその流れから、現在では歴史書を耽読するようになり、
網野善彦さんなどの歴史家の本を読むことが多くなっている。
網野さんも左派系のひとであり、埴谷雄高さんとも関わるような
そういった知の系統ではないかと思うのですが、
わたし自身は、そういった人から多くの影響を受けてきたことは間違いない。
歴史分析の手段として、やはり史的唯物論的な見方は正解だと思う次第。
ただわたしは、日本および日本人、そして人間そのものが好きなのであって、
そこから、明晰に歴史を知っていくことが必要だと思っているのです。
そんななか、最近大江健三郎さんが「9条の会」などで、
左派系・人権派の砦のような役回りになっていることについては
大きな違和感を感じております。
いや、あなたは生まれ故郷の四国の森の番人として、
空海以来の日本的密教世界に盤踞していることがふさわしい。

結局人間は、なにを読んできたかで大体のことはわかるのだろうと思います。
それは、なにを食べてきたかが肉体だ、というのに近い。
そのことをしっかり認識して、
より冷静に現実を見ていきたいと思う次第。

<写真は青森で食べた薩摩揚げの逸品料理>

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