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食も修行 永平寺 2

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永平寺でいちばん感じたことは、すべてが修行であると言うことです。
この寺は禅のお坊さんたちが修行する場なので当然なのですが、
われわれ庶民にも直接関わることとして、
食事について、こういった禅の考え方が日本人には刷り込まれている不思議さです。
わたしたちは食事にあたって「いただきます」と唱えて、感謝の心を表している。
それは食を通して「いのちをいただく」という禅の教えに根ざしている。
あれは、まごうことなく禅の教義であるワケです。
修行のためのたくさんの伽藍を巡ったあと、
あるお部屋で、永平寺の「食」についての考えをまとめたビデオが上映されていた。

なんでも、典侍という永平寺でも3番目にエラい役のお坊さんって
食事の係なんだそうです。
で、エラいからと言って奥に籠もっているのではなく、
毎日毎日、3度3度、200人からの大人数の修行僧のための食事を
先頭に立って、作り続けているのだそうです。
開祖、道元さんは、食は大切な修行の機会であると説いて
その責任者に高い地位を与えていたのだそうです。
それが「精進料理」という文化を生み出し、
そして庶民隅々に至るまで、食文化伝統に染みわたっていった。

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食を作ることの隅々にまで、こうした考え方は貫かれていて
どんな食材も、そのすべてを「いただく」ことに精魂が傾けられている。
それぞれの素材の「いのち」をそのままに感受出来るように
細心の配慮が施されて、ひとの口に入るように考えられている。
そして一方、食べることについても
そういった考え方を受容できるように作法として考えられている。
ひとハシ、ひとハシに行動の意味と、合理性を調和させている。
食事は早すぎても、遅すぎてもいけない、
そのような呼吸を得ることも大きな修行であるというのですね。
日頃、毎日のように自分でも食事を作っていて
しかもダイエットとかに取り組んでいるので、
こういった考え方に触れて、まことに一言一句がストレートに入ってくる。
宗教と言うこと、生き方と言うことが、
非常にわかりやすいかたちでひとびとに示されるという意味で
まことにすごいシステムを道元さんは考えつかれたものだと感心させられます。
雑念と煩悩にまみれた穢れた身でありますが、
永平寺に行ってから、ときどきその食事作法をまねてみようと試みています。
日常のもっともなにげない局面で、
「どうしなければならないのか」をしっかりと考えさせられる。
まことに実践的なシステムだと思います。
食への敬虔な態度を構築できれば、それが本然の修行の本質に関わってくるのですね。

まぁ、数週間が経って
すっかり習慣は忘却されていくのですが(笑)
それでも、こころの片隅には
食を思い知るよすがだけは残っていると思います。
たいへんありがたい体験を得させていただきました。
感謝。

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