写真は先日、東京の博物館で見掛けた気仙地域の歴史展示より。
金鉱りの歴史についての展示なんです。
金という希少金属は、人間の歴史において、
かなり決定的な要因になったに違いないのに
それが通り過ぎてしまうと、忘却される人類的体験記憶でしょう。
リアス式海岸地域というのは、
日本の歴史の中でも特異的な発展をしてきた地域だろうと思うのですが
そのなかでも黄金産出に伴っての特殊性が大きかったのではないか。
きのうは「津軽地域」を歩いていたのですが、
津軽というのも、発展の仕方がかなり独特だと思う。
それとの対比でも、気仙、リアス式海岸地域もかなりの独特さ。
ことばの異質感は、どちらも日本語の語彙との距離感がハンパない。
そういう部分に、今日までもしっかりと残滓が残っていると思う。
いわゆる日本という文化は、基本的には縄文的な
漁労+森からの採取という生活様式をベースにして
それに「ムラ」社会を生み出した共同生産体制としての
コメ生産社会様式が重層していったものだろうと考えられるのですが、
やはり、それとはまったく異質に近い金属発掘型の社会というのも
日本には多様に存在していたと思われます。
日本歴史では、前九年後三年合戦の合間に、この地域政治勢力を
清原氏が攻めたという記録が残されている。
東北は各地で独立的な発展を遂げてきているけれど
やはり東北の中央権力は、奥六郡地域か、仙台平野地域に存在した。
そことは、陸路での交流はあまりなかったに違いなく、
また、河川による交流も大きな川が存在していないので
たぶん、北上川河口地域から海路で交流していただけなのではないか。
そういった交通の隔絶性が独自の発展の要因にもなった。
さて、黄金であります。
東北が日本史と交錯するときに一番のキーワードは
やはりこれなんでしょう。
清原氏による軍事的なこの地域の征服を経て
東北中央権力は黄金産出地域の支配権を確立して
その経済的利益を集中させることができた。
王朝政府側も、坂上田村麻呂以来の直接的軍事支配が
どうしてもうまくいかない現実の中で
安定的な黄金の日本中央、畿内地域社会への導入を優先して
奥州藤原氏という、のちの鎌倉幕府の政体のモデルになるような
「独立権力機構」の存在を容認した。
奥州藤原氏も、遠のみかどとしての多賀城国府を尊重し、
年貢負担などの最低限の日本国家への従属義務を果たし、
強い自治権力の構築を実現させていた。
こういった日本史、東北史のなかで、
さて黄金産出産業は、どのような経緯をたどっていたのか、
つまびらかにしてくれるような歴史研究者の仕事を探したりしていますが、
なかなか前途の遠さを感じてきている次第であります。
この東京での展示も、
まるで偶然のように飛び込んできた情報機会。
じっと目をこらして見入ってしまった次第であります。
ふ〜〜〜む。
Posted on 4月 9th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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