朝鮮と日本、半島と列島は
たぶん、東アジア世界では長く一体的な関係だったのだと思います。
中国大陸の人口増、社会発展があって、
それへの対応の仕方が、陸続きだった地域と、
海という結界をもった地域とで、考え方が違うようになった。
このことが、民族意志の決定において、より重要な要素になって
次第に「国際感覚」に違いが現れるようになった。
もともと日本という列島地域には、縄文の伝統的社会は形成されていただろうけれど、
その人口維持規模からして、弥生的生産様式を「移住」的に持ってきた
半島、大陸からの流入諸族が形成するコロニー(クニ)が次第に列島社会で優位性を持ち
基底的な縄文社会とが融合するようになっていったのに間違いはない。
そういう意味で、この列島は、アジアに開かれたフロンティア地域だった。
そうした弥生生産様式優位の体制の結果としての
初源的な「倭国」という連合国家体制が形成された頃には、
朝鮮半島の国家群、新羅や百済などの南朝鮮諸国家群と、支配層の意識に於いては
「同族意識」が非常に高かったのだと思われます。
中大兄皇子、後の天智(天皇)の時代には、
同時代の超巨大律令体制国家・唐の勢力伸長があって、
こうした東アジア世界でのパワーバランス・国際関係が極度に緊張していた。
額田王が出征兵士を鼓舞したとされる古代の国際戦争が起こった。
唐・新羅連合軍と、百済・日本連合軍が白村江で戦って、
日本側は手ひどい大惨敗を喫してしまったのだ。
母親が死んで、「大王位」が空席になったにもかかわらず、
天智はこの非常事態の収拾に奔走させられて、即位時期を繰り延べざるを得なかった。
戦勝の機会を捉えて、唐・新羅連合軍が必ず攻め寄せてくると
防衛線の構築に相当の緊張感を持って当たっていた。
この白村江敗戦という国家的衝撃が、その後の「律令」国家形成へと向かわせていった。
「遣唐使」とは、唐との平和共存国家戦略であり、
唐側から見て「朝貢国」という位置づけになったことは間違いがないだろうと思います。
古代における強大な唐という、律と令による明確な法治・軍事超大国への対応に於いて
倭国内部で深刻な対立が起こり、
やがてそれが壬申の乱という内戦を引き起こし、
天智から天武への「兄弟」間での王統の遷移に結果した。
このときはじめて、この列島社会で「東西決戦」が行われて、
東軍の主力、上毛野氏などの勢力を率いた天武が倭国の支配権を握った。
かれは、唐に真似た律令国家・小中華国家を志向し、
同時に国号も「日本」として、国際社会に認定させ、国家体制の構築作業を行った。
遣唐使が、唐朝廷での席次で朝鮮国家と争ったという記録があるのは
こういった国際関係のなかでの出来事のようです。
さらに天武は古事記や日本書紀などの「歴史の編纂」を行い、
「日本国家」の正統性創造に成功したとされている。
伊勢神宮が、皇室に特別のゆかりのある大社であるのは、
この壬申の乱の時の経緯に深く関係している。
これまでの「日本歴史」では、この時期の詳細な解明が
まだ明確ではないと思う。たぶん、本来的な意味での「日本」の成立に関わるので
天皇家のルーツ、禁忌に近づきすぎるということなのでしょうか?
東アジアの国際関係を解明するためには、
しかし、このような歴史の掘り起こしが不可欠だろうと思う。
白村江での大敗戦から、壬申の乱、日本国号の成立、唐からの「認証」など、
この時期の歴史がもっと明瞭に探求されなければならないと思います。
<きょう書いたような歴史の見方は、わたし個人の意見です。歴史学者ではないので
この見方にどこまでの正当性があるのかは、正直わかりません。ただ、
おおむねは、このような流れだったのだろうと認識している次第です。>
Posted on 8月 15th, 2013 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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