歴史などを知るほどに、現代という時代の不可思議さを認識します。
わたしは、日本という社会のなかで
北海道と東北地域で出版業、
それも住宅に関連する領域を中心にして生きているのですが、
そういう職業について、
別に親はなにも関与はしていなかった。
まったく自分の自由意志で、こうした仕事を始めて
30年以上を生きてきたのですが、
最近、そもそも職業ってなんだろうかと立ち止まって考えることがあります。
人間社会って不思議で、
たとえば、イスラムの都市、フェスでは、
人口がおおむね30万人規模が長く維持されてきたそうで、
どうしてその数なのかという,ひとつの理由に
人口社会規模が、そのサイズであれば、
自然的状態でそれぞれの人間がその類的存在の中で、
優位的機能性を発揮しうるからだ、
という説を聞いたことがあります。
30万人くらいの多様性があれば、それぞれ個性を発揮して生きる、
ということが人間社会全体として可能になる、という説。
この考え方が頭に残り続けているのですが、
そういうふうな考え方で見ていると、
北方日本の北海道・東北での「地方中核都市」はおおむねその規模。
旭川、帯広・十勝、函館、青森、盛岡、秋田など、
大体その人口規模が維持されていることに気付く。
そういった人口規模のなかでは、
多様性を持った人間の可能性が、おおむね納まって居場所があるということなのか?
こういうことの研究って「社会学」というようなことになるのかどうか。
きっと、人間存在って言うのは、
類的な、あるいは社会的な関係性で生存していく、
アリやハチのコロニー、社会に似たような面を持っていると思います。
そしてこれまでは、人口拡大の方向だけが社会の規定要因であった。
30万人というコロニー社会はひとつの単位にはなっていただろうけれど、
国という規模では、一貫して人口拡張が大前提で考えられていた。
そうすると、人間の可能性の「拡張」が可能であった。
「職業」というものも、そのようななかで多様化してきたけれど、
さて今後は、このことはどうなっていくのか。
すでに、「技術の伝承」ということが
難しくなっている職業領域が増えてきている。
休日の一日、
ごくなにげない買い物や食事作り、その準備などにかまけながら、
そんな妄想が膨らんでおりました。ふむふむ・・・。
Posted on 6月 30th, 2013 by 三木 奎吾
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