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古参PCユーザーとIT進化

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きのう、中学校時代からの親しい友人とある機会があって話していた。
かれはそれこそMacの創成期からの個人ユーザーで
いまでも家と職場とで何台もMacを使い続けている。
けれど、Facebookなどのサービスは利用していない。
「個人情報を軽々に渡してしまうのは、どうも・・・」という意見。
「友だち5000人超」などと自慢げなひととは
いまや、人種的な違いも感じさせられる。
それと、Macについても、いまだにPowerPCチップの「G4」を使い続けていたりする。
Macが業界標準のインテル製品チップに移行してからは
それまで購入してきたAdobe製品のアップグレードにも付き合わなくなっている。
それで、きのうある仕事を頼まれたのだけれど、
それもかなり古い環境で制作したデータを渡された次第。
こちらは、そういった仕事がメインなので、ある技術情報をお知らせしたりしたが、
なんとなく、彼が抱いている疑念というか、わだかまりはよくわかる。
PC革命の第1世代であるひとびともそろそろ老年期を迎え
「技術進歩」というものとの距離感をかみしめ始めている。
「わかるけど、それはどうなんだろう?」という疑念がぬぐえないのですね。
わたしなどは、相当にこういった技術変化について行っているかも知れないけれど、
技術を覚えさせられることには少し、疲れを覚えてもいる。
体の中から、新しいことへの「あぁ、またこういうのかよ」という
内語が沸き起こって来ることを抑えられない。

結局、何度目かの欧米主導の「技術革命」のはじまりから安定期への移行期に
いまわたしたちは、世界史的に見ているのでしょうが、
あまりにも変化のスピードが速すぎて
人間の柔軟性の側で処理しきれなくなってきているのかもしれない。
パソコンの発明はすごい人類史的な事件だと思うし、
それは、人類の向かっていく方向性をあきらかにしている事象だと思っている。
けれど、その道筋は、もっと柔軟なものであるべきなのではないか。
そんな思いを、共有させられたと言うことです。
さてまぁ、そんな中高年のため息などは吹っ飛ばしつつ、
「友だち5000人」の人たちが、
イニシアティブを取っていく社会に、本当になるのでしょうか?

<写真は、創建140年の北海道神宮境内の「開拓神社」社殿>

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