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氷柱のある街の風景

歳を取ってきて
何でもない風景が、妙にこころに訴えてくるようになる。
もう50年近く前のころの札幌の街のことが
こころを駆け巡るようになってくる。
この季節になると、無性に氷柱に覆われた建物を思い出す。

いまは、住宅関係の仕事をしている関係から
この氷柱は、ダメな住宅の典型例として
インプットされているのだけれど、
もちろんそういう認識は住宅にプロとして関わっている人間は
当然持っていなければならないのだけれど、
一方で、こういう風景に思い起こす痛切な身体感情もある。
窓から氷柱を触って、それを微妙に動かしながら、
下の落とし場所を狙いを付けながら、それを落としていく楽しみ、
そんな身体記憶がまざまざと思い起こされる。
今考えれば汚いけれど、
氷柱でウイスキーのオンザロックを作って、
親が寝静まった時間、未成年なのに楽しんで飲んでいたりもした(笑)。
どうして氷柱ができるのか、
それと家が寒いこととの連関を知るようになったのは
恥ずかしながら、この仕事に就くようになってからなのだ。
自然現象に対して、それを科学的に把握できるようになるまでには、
やはり理性的な判断力が求められるのだろう。

いま、氷柱は敵だ、
というように理性では思っているのだけれど、
一方で、この写真のような北国的な建物の困難の表現にも
どこかで、そこに暮らす人間のにおいを感じる部分がある。
なにか、痛烈なあるものをさらけ出しながら生きている、
そんな感覚が立ち上ってくる。
全く氷柱のない住宅、建築はすばらしいけれど、
こういう氷柱とともに生きている人間性にも
限りないこころの「流れ」を感じざるを得ない。
なんともおかしな思いですね(笑)。

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