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現代社会の鬼と想像力

わたし、昔から鬼が大好きであります。
先日も、閻魔大王さんのことを書いたりしたのですが、
日本の民話的世界の中では、
鬼への恐怖と言うことが、繰り返しテーマとして出現します。
写真は、みちのく杜の湖畔公園内の建物で流されていたモノ。
東北地方に多い、なまはげ的な鬼が家の中に乱入して
「泣く子はいないか」「悪い子はいないか」
っていって、大暴れする鬼と言うことですね。
こういうのは、大体、村の中の若者たちが
若者的イタズラ心で、かわいい子どもたちをいたぶって
その正しい成長を願って行う通過儀礼のようなモノだったのでしょう。
子どもたちにしてみたら、これは乗り越えなければならない恐怖体験。
ガクガクふるえるような体験で、そこでは
「もう悪いことはしません、許してください」
って言わされて、正しい行いを心がけることになる。
まことに由緒正しき伝統的情操教育であり、倫理教育ですね。

で、こういう「荒ぶる心・存在」というものへの恐怖って、なぜ発生するのか。
言いかえると、鬼って、いったいなんなんでしょうか?
このあたりは、それが民俗っていうものだ、というような領域に入っていく。
ふり返ってみると、テレビ的な日常的情報の世界が強まってきた社会では
こういった民俗の部分って、リアリティがどんどん消失していく方向に働く。
でもそういう社会は、想像力を鈍磨させていく社会ではないのか。
どうもそういった思いがしてきています。

しかし・・・。
折しも、小沢一郎陸山会の件での東京地裁判決で
裁判官は、多くの被告人調書を証拠採用しなかったにもかかわらず、
他の証拠から「大胆な推論」で有罪認定したとされている。
どうも今日の社会では、裁判自体が、意味不明な
根拠の薄い「想像力」の代替装置になってきているのではないか。
ふと、そんな思いに至ってしまっておりました。
怖いのは、それをマスコミがはやし立てていることだと思います。

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