わたしの家って、広島県の福山市近郊の、今津というところから
大正のはじめ頃に北海道に渡ってきたという家系です。
北海道の人間って、たぶん多くの人がそれぞれの故地から「故あって」
この地にやってきた人たちだろうと思うのです。
なので、あまり当時の詳細な事情は話したがらないものなのでしょう。
わたしの家系がなぜ、北海道にやってきたのか、
詳しいことはわからないのです。
おじいさんは末っ子だけれど家督を継いだ、ということ。
長男の人が継いでいたのが、その後やむなくおじいさんが継いでいた事実。
そんなことから、事情を推し量るくらいしかできません。
当時は、入植した土地で必ずしも農家になる、ということではなかったのですね。
もちろん、開拓農家としてその農業技術が認められて入植した家などは
当時の開拓使、あるいは北海道庁から
土地を与えられてか、もしくは廉価に分け与えられて、
さまざまな作物を栽培して、農業経営に取り組んだのでしょう。
わたしの母方の家は、そういう家だったそうです。
って、前置きばかり長くなってしまいました。
要するに、北海道に入植したてのころ、わが家では一時、
「水車小屋」を営んでいたそうなんです。
水車小屋は自然利用の動力装置ですから、
脱穀など、利用用途が広かったのでしょう。
が、わたし、水車小屋って、実物をじっくり見たことがなかったんですね。
兄たちに聞くと、彼らの年代は知っているんですよ。
先日、仙台にいたときに少し時間があったので、
みちのく公園に行ってきまして、古民家などを写真撮影してきたとき、
ちょうど、おあつらえ向きに、あったのですよ。
へぇ〜、こんなふうになっていたんだ、と
しばし、おじいさんの世代のことを想起してみた次第。
この装置を作るには費用もかかっただろうし、その費用の回収、
どういう計算が建てられて、もうけはどれくらいだったのだろうか?
あるいは、そういう商売ではなかったのかも知れないなぁ、
などなど、わき上がってくる疑問や、思いが尽きません。
やっぱり生きて動いている実物を見ると、
想像力が生き生きとわき上がってくるものなんですね。
こういう仕掛け、その当時は一般的に造作はされていたのでしょうが
いまとなっては、どうやって作るのか、難しいでしょうね。
でも、接してみると、実にうまく考えられた装置で
こういうからくり技術がいろいろな技術のベースになっていったのでしょう。
まさに、サスティナブル(持続可能)な社会技術だったのですね。
しばし、時間を忘れて、見入っていたのでした・・・。
Posted on 7月 29th, 2006 by replanmin
Filed under: 歴史探訪
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