さて富山の薬売りおじさんのよすがを訪ねる探索その2.
越中反魂丹の池田屋さんの店舗風景であります。
全国への訪問販売が主な営業スタイルだけれどその本拠の様子。
上の写真は、昭和29年撮影の写真だそうで、柳行李を担いで店を出発する
2人の行商人を撮影したもの。
時代的にはわたしが話を聞いていた富山の薬売りおじさんの時期と
たぶん2−3年の相違しかないと思われます。
その下の写真は昭和20年の大空襲で店舗も全焼したけれど、
すぐ翌年にはこの写真のように再建築されたのだという記録。
その下には最近2014年段階の正面外観。
どうも、昭和21年にほっそりと植えられた街路樹が、成長しているようにも見える。
70年近い歳月が経過しているので、そうであるかも知れない。
そんなふうに写真記録を見ていると、いちばん上の写真の右側人物は
ひょっとしてわが家に来てくれていたおじさんかもと、想像が燃え上がる(笑)。
配置売薬の歴史について、「もうひとつの学芸員室」というWEBサイトから要旨抜粋。
〜元禄三年(1690)に遡る。加賀100万石の前田家から分封した富山10万石
2代目藩主・前田正甫(まさとし)公が江戸城に登城した折、
岩代三春藩の藩主・秋田輝季公が激しい腹痛を訴えて倒れた。
正甫公が持参していた「反魂丹」を与えると、たちどころに腹痛は治まった。
なみいる諸大名がその偉効に感服し、自分の領内での販売を望んだ。
正甫公の命で諸国に行商させたのが富山売薬のはじまりで、
やがて配置売薬にかわっていった。文久年間には
売上げ20万両、行商2,200人に達し、昭和9年行商人14,160人がピークという。
「反魂丹」は古くから中国にその処方はあったが、室町時代に泉州堺浦の
万代掃部助が唐人から教えてもらったのが一子相伝で伝わった。
3代目万代主計は備前国益原村(岡山)に移り住み医者となり万代常閑と名を改めた。
富山藩はその常閑から反魂丹の処方を譲り受け、松井屋源右衛門に命じて
製造・販売させるとともに、反魂丹役所を設けて奉行をおき管理させた。〜
とありました。なにやら「麒麟がくる」での「お駒さん」のビジネスと被ってくる(笑)。
店内に掲げられていた古い看板の類から、
売薬と日本人の暮らしの空気感が伝わってくる。
いまどきの大型ショッピング化したクスリ店よりもなんとも風情があるし、
なによりひとに頼もしげに、やわらかく感じられるのは、気のせいでしょうか(笑)。
Posted on 12月 24th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
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