検察審査会、という機構が結論を出した。
小沢一郎に対する強制起訴ということだ。
どうも根源的な恐怖感が迫ってくる気がする。
とりあえず、このことの正否は問わないとしても、
このことの結果、どういうことが起こっているか。
そのことの方が大切だと思う。
現実政治では、日本社会では小沢一郎は
このことによって、短期的には裁判終了まで身動きが取れなくなるだろう。
それが、国益に叶うのかと言えば、
たとえば現在の日中関係の危うさを思うとき、
日本が出しうるカードの大きな一枚を日本は欠くことになる。
このことだけをとっても、マイナスは大きく考えられる。
場合によっては、直近の民主党党首選挙での僅差選挙の結果として
菅直人が倒れたときの緊急避難政権も、その可能性は遠のいた。
そして、そのような事態を惹起するだけの「権力」を
この「機構」は持ってしまっている、ということが問題なのだ。
そこまで大きな権力行使をしながら、その実態は
「プライバシー保護法」によって守秘されている。
出された論旨は、被疑者に正統性論証を迫るものであって
検察が証拠を持って、犯罪特定するものではない。
まさに疑わしいので、裁判するという論旨だ。
どうも一連の社会システム構築自体、無限連鎖のような不具合を引き起こしている。
わたしたち日本社会は、過去に多くの政治家を輩出してきた。
そして、どれだけ、清廉な指導者を得てきたのだろうか?
むしろ、そういう清廉なだけの指導者というのは
直近で言えば、太平洋戦争指導を行った
軍部と官僚テクノラートであり、そういう存在こそが
国を本当に滅ぼしてきたのが、近現代史の事実ではないのか。
今回の「議決」は、確実に政治家のお金の問題について
「疑わしきはすべて起訴する」ことに道を開いたと言える。
こういう法律を、このように使うということは想定していなかったというべきか。
本来、検察審査会というのは、えん罪などを想定して
それを防ぐ意味で、担保的に考えられた制度なのではないのか。
戦前の、統帥権問題に、いよいよ近似してきたと思うのは
わたしだけなのだろうか。
戦前、政治家の腐敗追及の結果、政治自体に不信感を突きつけ、
軍部と官僚に政治運営を委任したことと、
今回の政治家への市民ヒステリーはまさに同根の事態だと思う。
政治家に対してここまでの超法規的な権力行使を行うのであれば、
もっと大きな問題も論議されなければならない。
疑わしきは罰せず、という社会正義は
どのような領域でも確保されなければならない。
こういった司法手続き過程にあっても、政治的活動には影響を及ぼさないように
社会システム自体も更新される必要がある。
北のくらしデザインセンター
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Posted on 10月 5th, 2010 by replanmin
Filed under: 状況・政治への発言
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