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【函館山から7−8km 明治6年五稜郭周辺道路】


さて、自民党総裁選挙。朝日毎日やテレビ各局マスコミの偏った期待と
石破氏の脳内だけの「願望」は残念ながら夢幻に近かった。冷厳な現実。
マスコミにいいようにオモチャにされ石破氏も自己陶酔していただけかも・・・。
安倍後継の菅さんは保守党内で圧倒的に支持されたけれど、
さて、リアルな日本政治はどういう方向に向かうのか?注目。
といったところですが、国内政治ネタは自制的扱いで(笑)。

先日「道」についての探索記事をアップしてみたら、かなりの反響。
道路もまた「建設」されるもの。でも道路自体はあまりにインフラで
当然ながら、論評、検証されるということは少ないように思う。
北海道はまだ国土としての開発から150年ほど。
初期の状況を伝える記録写真が北大ライブラリにかなり遺されている。
開拓の最初期では、奈良時代から始まった「官道」整備、
「日本の道」公共道路の姿を伝えるわかりやすい情報が残っている。
最後に開拓されたことで日本の「道」の原初に近い消息が記録として残った。
日本史では奈良から明治まで1,100年「陸路公共交通」の基本は維持された。
しかし最近、歴史・考古学で戦国期の軍事道路の発見が多数相次いでいて、
物言わぬ道路「建設」の手法、目的の変遷が注目されてきている。
戦国末期、織田軍団は「兵農分離」に基づいて職業的専門軍団を組織し、
そのうえ、多方面作戦を展開せざるを得ない「畿内制圧」達成のために
軍の移動高速化を最優先にし、現代感覚で言えば一般道に対して
「高速道路」に匹敵するようなインフラ道路を整備したとされている。
秀吉の中国大返しはこうした道路を利用して成し遂げたという論が強い。
現代はクルマの高速移動が目的だけれど、戦国期は兵員の高速移動目的。
それ以前の道路は、そのような「高速移動」用ではなく、
攻防で言えば、防御優先思想で複雑に曲がりくねらせて
侵入する外敵の進軍速度を低下させ攻撃を加えるのが目的だったという。
そういえば家康の天下取り後の最初の指令は東海道の整備といわれる。
戦国の終了と統一国家成立は実は道路の革命がインフラ要因だった?

写真の道路は五稜郭周辺で、函館山麓からだいたい7-8km北上した地点。
写真説明では「亀田橋より函館山を望む」と書かれている。明治6年の撮影。
五稜郭は近代的な城郭建築として造営された日本最後の城。
この「亀田橋」周辺道路は現在の五稜郭駅から五稜郭城郭につながっている。
地図確認すると駅の西側先には港施設があるので、軍需物資輸送路か。
かなりの幅広道路。明治6年写真だけれど5年前には五稜郭戦争があった。
現在位置的には市街地道路だが江戸期以前の城下町迷宮的道路ではなく、
まっすぐに造営された「往来交通・輸送物流のための」道路。
江戸期最末期で開港都市である函館防衛拠点である五稜郭への軍事物資の
搬入輸送のためが初源であったのかも知れない。
そうすると江戸幕府体制で建設された道路である可能性が高いでしょう。
北海道開拓期からやがてほどなく道と移動手段は革命期を迎える。
道は出来た最初の目的からだんだん乖離して社会発展の基盤に変容していく。
函館は函館山周辺地域が「町家」を構成して人口集住が進んでいたけれど、
この五稜郭周辺は軍事的性格が強かったのでしょうか。
函館はそれまでの都市の作られようを踏襲した性格もあったのだろうか。
現代とは違って権力も移動するので公共事業の目的性格も不明になる。
146年前の状況、写真情報から見えてくることは実に多い。歴史の逍遙。

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