北海道の明治の開拓使時代には「御雇外国人」が多数来日した。
とくに世界の中でアメリカ北東部開拓の経験事例がもっともふさわしいと
明治政府が判断したことで、アメリカからの技術者の来訪が多かった。
ときのアメリカ農務局長であったホーレス・ケプロンさんなどは、
極東の小国ニッポンの寒冷地北海道開拓への熱い思いに強く共鳴し、
その職を辞してまで北海道開拓の基本方針をまとめ上げてくれた。
いまも札幌にはアメリカ領事館がある。〜青春の学生運動時には、無知にも
よく「安保粉砕」デモ行進でごく近くまで接近させていただいた(笑)〜
明治の開拓から70数年後、日米は戦争に至ってしまうけれど、
しかしこの明治の黎明期に学ばせていただいた恩義は深いものだと思う。
そうしたアメリカ人技術者のひとりにベンジャミン・スミス・ライマンがいる。
北海道開拓史上でたいへん名高い人物で、
開拓使にとって決定的だった炭坑の発見、開発に果たした役割は巨大。
明治期の「産業革命」の主要なエネルギー源であった石炭産業が
北海道で開発されたことは、日本の殖産興業において画期的だった。
産炭地幌内と積み出し港の小樽間に、日本の産業革命を象徴する
鉄道が新橋—横浜、京阪神に次いで早々に開通したことは、
この発見開発のインパクトの巨大さを物語っている。
かれの経歴・人物の概要はWikpediaでは要旨以下の通り。
〜経歴 1835年にマサチューセッツ州のノーサンプトンで出生。
ハーバード大学を修了後、ドイツのフライベルクにある
フライベルク鉱山学校(現在のフライベルク工科大学)で鉱山学を学んだ。
ペンシルベニア州、インドなどの石油調査を終えたのち、1872年(明治5年)
北海道開拓使の招待で来日、1876年まで北海道の地質調査に従事し、
後に工部省の依頼で1876年から日本各地の石炭・石油・地質調査にあたった。
1891年に帰国するまで日本人助手に教育するなど日本地質学に貢献。
帰国後はペンシルベニア州地質調査所次長に就任。1895年に同所退職。
再訪日を望んでいたが訪日できずペンシルベニア州で1920年に死去。 〜
かれにとっても、北海道での日々は格別の体験だったことが偲ばれる。
北海道人として、はるかにリスペクトし続けております。
そんなかれの工部省依頼での東京滞在時期の住宅写真が、
北大の北海道開拓期の写真として保存されていたのであります。
確認できるのは上の2枚の写真で、札幌滞在時にはお雇い外国人の邸宅は
本格的「洋造住宅」であったものが、この東京「平河町」の家は、
写真から「取材」する限り、庭も石灯籠が据えられる純和風住宅。
もう1枚の写真は「書斎使い」していた部屋のようだけれど、
床の間が正面にあり書が掲額されていたりして、日本的知識人風。
この書、内容を理解して掲額していたとすれば日本への理解度ハンパない。
しかし床の間に本棚があったり違い棚にたくさんの書類が積まれたり・・・。
洋机が据え置かれ、コーナーには安楽椅子もあり使い方は洋風の使い方。
一方縁側から出入りの庭の写真からは、ライマンとおぼしき人物もみえる。
和洋折衷は日本人だけではなくかれらも面白がっていたのだろうか?
「郷に入らば郷に従え」を英語で咀嚼していたものか・・・。
また札幌での「洋造住宅」とこの東京平河町での和風住宅のどちらに、
より「快適性」を感じていたのかは、いまうかがい知ることは不可能だけれど、
現代で日本の住空間を考える立場からすると、興味深く
タイムマシンに乗ってでもインタビューしたくなってくる(笑)。
「和風もワンダフルだけれど、ちょと冬、サムイ(笑)」みたいな声が聴けたかも。
経歴ではその前にはインドでも滞在経験があるようなので、
住環境いろいろ体験国際人として、興味深い履歴のようです。
Posted on 9月 14th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 住宅取材&ウラ話, 歴史探訪
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