近代国家に至るにはいろいろなプロセスがあるだろうけれど、
有色人種国で日本だけがなぜ明治維新からの急激な近代化を成し遂げ得たか、
もと左翼少年であるわたしには、よく理解出来ない部分があった。
もちろんいろいろな要因があるだろうけれど、
最近ブログで明治の開拓という少年国家日本の軌跡を追体験するに付け、
明治ニッポンの国体、明治天皇の存在自体が相当大きいと気付くようになった。
明治維新混乱期、薩摩の大久保利通は古色蒼然とした京都公家政権という
旧来型「天皇制」を否定し西欧近代君主制に変貌させるべく
君主としての明治帝の意識改革・教育を志していたとされる。
公家は武家などに天皇に直答させず「奥の院」化させて
そのコミュニケーションを担当する公家だけが枢機に参画できる
武家政権以前の王朝国家はそういう体制でやってきていた。
徳川政権が崩壊し王政復古となったとき公家はその再興を画策もした。
しかし大久保たち薩長はこの若き君主を因循の京都政局から引き剥がし
列強と対等の新国家の中心たる「君主」として涵養したのだ。
最終的に江戸への天皇の移住・東京遷都で明確な国家意思を示せたけれど、
その前に大阪行幸させ「近代国家」そのものの海軍艦隊を天覧閲兵させている。
そのときの新時代への明治帝の目の輝きを見て大久保は内心深く歓喜した。
「この君ならば・・・」と感動したとされる。
易姓革命を繰り返した中国では、清国皇帝とは凶暴な征服独裁者でしかなく、
朝鮮でも国体を体現するような民心を得た君主ではなかった。
ひとり明治国家だけが、武家政権成立以来永く「君臨すれど統治せず」という
英明なる君主のありようを体現できていたといえる。
このことは日本の歴史的政体が天皇ファミリーの独裁ではなく、
ある大きな目的に向かってこの国家民族が走り出すときの「御旗」として
天皇制が大きな役割・機能を果たしてきたことを表している。
・・・そんなことが大きく認識されるようになって来た。
無私性を伝統として持つ天皇権力と士民の「勤皇」が発展原動力になったと。
北海道住宅始原期においても、明治帝はこの土地を深く愛惜され、
常にこころを砕かれていたと思われる。
いま帝の思いは自ら遣わされた開拓三神とともに北海道神宮に鎮座する。
<この地への志をはるかに忖度され明治帝は北海道神宮祭神となられている。>
ロシアからの略奪危機に深い憂慮を持ち、この地の殖民繁栄を祈念されていた。
明治改元からの開拓使の開拓努力が一段落した明治14年に北海道行幸された。
当時のこの地の民にとって相当なインパクトがあっただろうと思う。
なにしろまだ10年ちょっとしか開拓できていない段階で
国体そのものの最高貴賓をお迎えしなければならないのだ。
遙かな後年、孫の昭和帝も敗戦後ほどなく北海道に行幸されたが、
「自分が行くことで決して北海道を見捨てはしないと伝えられる」
とお言葉を遺されたとされる。
祖父・明治帝の薫陶と思いがそのようなコトバになったと思える。
宿舎として日本初の本格的洋風ホテル「豊平館」を新築したり、
日本最初の「公園」偕楽園(水戸と同名)を現在の北7条西地域付近に整備した。
しかし開拓殖民の道半ばの時期であり、満足に休息いただく建物もない。
そこで明治13年に貴賓来臨御座所「清華亭」は偕楽園のなかに建築された。
現在の住所は札幌市北区北7条西7丁目。
天皇の視察行幸での「句読点」として整備した公園をご覧いただき
メムの豊かな湧き水にサケまでも遡上する北海道らしい自然を天覧に供した。
さらに北海道の農林産業発展のための種育施設も整備していたとされている。
明治帝にとって北海道開拓は、国家そのもののある核心部分だったに違いない。
きょうは、明治帝のことだけで筆が尽きてしまった。
明日以降、この清華亭を建築取材的な視点から見ていきたいと思います。
Posted on 12月 26th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
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