図は札幌に開拓判官・島義勇が入地したあと、
札幌街区の「鬼門」にあたるとされた位置に建てたという
始原の「札幌神社」の地図。現在の札幌市中央区北5条東1丁目周辺。
その後、円山のふもと、札幌市中央区宮の森に移転しています。
きのうも書いた「創成川」が図の横軸になっていて、
上が東、下が西、右が南、左が北という方向になる。
島義勇は明治2年箱館を出発後、小樽から銭函に至り、
そこでやや留まらざるを得ず10.12に「開拓使仮役所」を設置した。
この間、兵部省がすでに市街形成されていた小樽地域を支配していたので
「開拓使」という新設の官庁が北海道開拓を仕切ることに不満の態で
さまざまに判官・島義勇に嫌がらせをした、とある。
ことは開拓使の札幌開発での食糧の確保にまで及んでいたとされている。
この年6月には樺太にロシア軍艦が来て破壊活動・基地設置をしていたので、
それへの国防対応もあって兵部省がこの地を支配していたとされる。
なにやら「省庁縦割り弊害・明治初年版」といった趣で一興(笑)。
しかし箱館では榎本軍の抵抗活動、蝦夷共和国反乱もあり、
こうしたロシアの挑発活動もあるなかでの「開拓」事業。
まことに内戦・侵略と騒然とした時代感覚に目眩するほどですね。
しかしロシアという国は太平洋戦争末期の中立破棄など、
日本への領土野心・工作活動の歴史的執念深さには驚かされます。
少年期、私の年代の友人たちも、もしロシアが攻めてきたら
こう行動するという話をしていました。国防はまさに北海道のキーワード。
ロシアは剥き出しの帝国主義であり、明治以降ニッポン国家最大の脅威。
明治初年は日本資本主義の資本蓄積が十分ではない時代なので、
開拓事業も官主導で行われたのですが、
今日の「経済感覚」とは違って食料流通まで官が統制関与していた実態。
判官・島義勇は銭函から、11月になって雪が降り積もる道をたどって
札幌までやってきたとされています。途次クマの足跡が散見されたとある。
まずは明治天皇からの官命の最たる「神社創建」大命履行が島義勇の任務。
このとき、稲田銀蔵ら3人の大工が札幌に入ったとされています。
土方という土木事業と同時に「建方」「作事方」ともいえる
建築工事者が都市建設に着手したということ。
その後、札幌の建設では請負の建築業者が出てくるのだけれど、
経済構造的にも官主導の時代、この段階ではそれこそ
官直営工事であって直接大工を使ったのだと思われます。
いわゆる官庁による公共事業・発注工事とは言えないように思われる。
街割りの配置としては、前述のような対ロシアの緊張時局そのままに
都市札幌の「鬼門」守備という計画になったものでしょうか。
そういえば全国の神社が基本的にすべて南向きに建っているのに
北海道神宮だけは北を向いて建っている。
北方からの脅威に対して備えるという姿勢を表しているとされています。
この地図でも神社参道が角度を振っているのはロシアを睨む方位体勢かも。
ついでにいえば、札幌は風水的には京都の街をちょうどひっくり返したような
そういった配置になっているとされているのですが、
このような発祥時点での国家意志が街区形成に影響していったのか?
札幌という街はこういった経緯で誕生していった。
Posted on 10月 2nd, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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