魏志倭人伝というのはナゾ多き古代史の白眉。
邪馬台国、卑弥呼というフレーズに日本人は揮発性が高い(笑)。
わたしは本格的国土になって150年の北海道ネイティブでもあり
やや引き気味。ただナゾといわれると野次馬的興味は高まるのですが、
でも、中国の正史と言ってもそもそも信憑性に疑問は持つ。
かの国にしてみれば遠い異国の、情報も乏しい時代での伝聞記録。
その片言隻句を日本人が微に入り細に入り論争し合うのはやや滑稽かもと。
そんな思いを持っていたら東京外国語大学名誉教授、故・岡田英弘氏は
著書「日本の誕生」のなかで1753年に編纂された中国・明の正史である
「明史日本伝」を引用。この時代より150年以上前の日本の
戦国時代末の歴史を描いた部分を抜粋している。以下。
・・・・・
日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった。
当時、関白だったのは山城守の信長であって、ある日、
猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。びっくりして
飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀吉といって、
薩摩の国の人の下男だという。すばしっこくて口が上手いので、
信長に気に入られて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。
・・・信長の参謀の阿奇支というのが落ち度があったので、
信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。ところが突然、
信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼした
ばかりだったが。変事を聞いて武将の行長らとともに、
勝った勢いで軍隊をひきいて帰り、明智を滅ぼした。(p.33)
<以下、「明史日本伝」漢文当該箇所>
【日本故有王、其下称関白者最尊、時以山城州渠信長為之。偶出猟、
遇一人臥樹下。驚起衝突。執而詰之。自言「為平秀吉、薩摩州人之奴」。
雄健蹺捷、有口弁。信長悅之、令牧馬、名曰「木下人」。・・・
有参謀阿奇支者、得罪信長。命秀吉統兵討之。俄信長為其下明智所殺、
秀吉方攻滅阿奇支、聞変、与部将行長等乗勝還兵誅之。】
ご存知のように中国易姓革命国家では、
前王朝の記録を次の王朝が「正史」として記録するのがならい。
そして1753年に編纂された記録というのがこの内容なのですね。
さまざまな誤解が盛り込まれていて、日本人が読むと驚かされる。
メッチャ、オモシロいことは確かだけれど、
信長が関白や「山城守」だったとは寡聞にして聞かないし、
秀吉も平氏だったことはもちろんなく
また攻めたのは毛利であって、「阿奇支」ではない。
阿奇支と明智、認識の混同も明らかだけれど?・・・。
〜150年経過した18世紀でこうなのです。いわんや3世紀編纂の国史。
縁遠い他国情報の魏志「倭人伝」部分について、
その片言隻句を詮索するのは、論理的とは言いにくいのではないか。
なんとなく歴史の流れの概略としてストーリーの脈絡がある、
程度に抑えておくくらいが正鵠と思えますね。
中国ではかつて正史はやがて書かれたのだけれど、
現代の共産党支配の中国はその成立直前の時期について
かなり事実とはかけ離れた歴史フェイクも多いと思います。
白髪三千丈の国民性もあり、少し冷静な見方が必要でしょうね。
それよりは、きのうまで触れている国土の詳細な歴史地形、交通手段の
科学的探究などから歴史事実を再検証する方が、核心的ではないか。
歴史教科書に当時の国土地形を併せて載せる方法が有益かも。
<写真は吉野ヶ里の復元建築内の様子。ニアリー邪馬台国?>
Posted on 9月 21st, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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