雪上がり、という表現はあまり日本語にはない。
雨上がりという表現はあるのに、と北国人は思う。
たぶん雪に対してのさまざまな感受性が現代以前の日本社会では、
それほどの感情移入の対象とされてこなかったし、
一般化もされなかったので、表現語彙として少ないのだろうと思う。
花鳥風月というのも、基本的には畿内地域以南の気候風土が前提で
そのなかで育まれてきた感受性表現なのでしょう。
とくに北海道という明治以降、多数の人間が住み暮らすようになった地域は
基本的にそういう文化圏と相対的に馴染まなかった。
しかし、北国・北海道に暮らしている人間は出自を
そういった日本文化圏に置いている人間が圧倒的多数派。
すでにそうした人間としての積層した精神生活体験を持っている。
たとえば、この写真は吹雪が上がったあと、一瞬の晴天が訪れて
森の木々が雪氷を身にまとっている表情が神々しく輝く瞬間。
それも移動するクルマの中から、それを流動する風景として
動画として、こころに刻んでいくような精神性の景観。
木々に張り付いた雪氷はいま輝いて、
日光の反射が雪がついている箇所とそうでない箇所でのコントラストが激しい。
しかし、全体としてはグラデーションがあって、遠近感もある。
息をのむような美観が一瞬の晴れ間とともに突然現れ出る。
こういった瞬間とか、感受性景観は北国の日本人は日常的に接する。
いわば現代花鳥風月的にこころで受け止めている。
まことに情韻がただよってくる。
こういった情感を表現する日本語がなかなかない。
こころみに「雪上がり」というコトバはどうだろうか、
というひとつの文化的定義の提案であります。
Posted on 12月 23rd, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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