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【古代北方政庁・払田柵】

政庁正門
Googleの航空写真図

古代において日本国が成立した経緯は、いろいろとオモシロい。 国家という概念がそれほど強くなかった時代には、 列島と半島、大陸という東アジアの情勢というのは流動的で 相互に相当規模で人的移動や集団での相克があっただろうと思われる。 そういうなかに律令制を伴った本格的な国家が大陸で成立したことで 列島社会でも、それに対応したカタチで「中華」思想を持った 国家が反射対応的に成立した側面があると思う。 中華思想というのは、要するに自分だけが「文明」であり、 他者はたとえば東夷とかいうように、野蛮であるという身勝手な「差別」思想を持つ。 日本という国家は、大陸でのこの中華思想を自らも行う意志を持った。 それが東アジア世界での普遍的思想だと断定したのだろう。 そういう考え方は、たぶん大陸での政争から排除された知識層が この列島に流れ着いて政権に関与するようになって顕在化したのではないか。 自らの「中華思想的正統性」のために野蛮を求め、それを征夷するのが、 文明化であるというきわめて「野蛮な思想」だったのではないかと思う。 そういうことで、まつろわぬ、という東北・北方の人々を 異端であるかのように決めつけて、征夷に乗り出していった。 実態としてはむしろ侵略だったのだろうと。 そういった東北地方への侵略拠点として、柵といわれた城郭が築かれた。 この払田柵は、出羽地域への進出拠点として想定された 正史には記載されなかった政庁施設、拠点だったとされている。 きのう探訪記を書いた「秋田城」に先行した施設だったようです。 現代ではさまざまなアプローチで復元に取り組まれてきているようで、 上の写真のような「正門」が復元されていました。 周辺には印象的な背景として「和賀岳」がそびえていて この柵が平野部を治める中心施設であることが象徴的に見えていました。 平野部でのコメ農耕を集約的に収奪することが古代政権の 中心的な興味だったことがGoogle地形図からも明瞭にわかる。 この柵が、しかしその後、平野部としてはここに面積的に劣る 秋田城にその役割を譲っていったについては、 そういうコメ管理以上の「国家意志」が働いたのであろうことが推測される。 それが北方世界、北東アジアや列島北部地域住民組織との「交易」だっただろうことも 容易に推定可能だろうと思われますね。 今回は時間がなくて駆け足見学で、しかもこの時期らしく柵自体は 冬の間の公開中止期間にあたっていた(泣)。 北海道では冬期でも公開している施設も多いのですが、 北東北では公的管理に「冬仕舞い」という対応が自然に支配的なようです(笑)。 冬にどうであるかも見てみたいというのが自然ではないかと思いますが。 さすが東北。なんとなく、おいおいと思わされました。 また春以降にチャンスがあれば、詳細に見てみたいです。

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