わが家の工事現場、きのうは休日。
着手から2週間が経過して、玄関ドアの新設も完了しておりました。
知人から、今回の工事で「3回目」の大きな変身ということを指摘された。
渦中にいると人間、そのように冷静な見方、自然な見方ができないもの。
指摘されてはじめて「家は3回建てなければわからない」という
建築の世界の「格言」が突然、胸に去来した。
1991年の新築から、1996年の増改築と2度の経緯があって
2018年今回のリニューアルと3度の「用途変更」となってきた。
そう考えれば、この建物を通して3度目の建築的体験をしている。
それで「わかる」のかどうかは定かではないけれど、
家を考える機会として3度目という認識は定まった。
やはり家は基本的には容器、イレモノだと思う。
物理としてはそうだけれど、その入れる対象が「人間が生きる」そのものという
不定形極まる「もの」、もしくはむしろ「こと」であるわけですね。
まずはこのことの「整理整頓」が基盤であるのだけれど、
常人には、これはむしろ地獄の責め苦にも近いかも知れない(笑)。
家を建てるということは、人生に明確にイメージを持つことになる。
そうでなければ、物理が成立しない。
「ここに住み、こういう暮らしをしたい」ということの決定が基盤。
ただこのこと自体、未来予断の部分が大きく含まれていて
ホントのところは誰にも見通せることなどあり得ない。
そうすると、こうした行為は「投企」ということになる。
未来を可能な限り見通して、ある確実性を自分で見定め信じるしかない。
たぶん、「3回建てなければ」というコトバは、この「投企と現実」の関係を
人生寓意的に表現したもののように思われます。
わたしの場合、仕事では「独立開業」してきた人間で
選び取った業界もほぼひと筋と言ってもいい。
そういう風に「自分である程度選べる」環境にあってなお、3度は
その環境について適応形態が変わって行かざるを得ないのかも。
工事が進捗してきて感じているのは、
やはりコンクリートブロック、石の建築の力感のすばらしさ。
日本では石の建築はそれほど文化として根付いてはいないけれど、
亜寒帯の北海道に至って、人類にむしろ普遍的な石の建築と日本人は
はじめて正面から出会うことができたのではないかと思えます。
よくヨーロッパの石の建築に於いては
その内装を随意に変えながら長きにわたって暮らしを営んできたと言われる。
そういうことに通じる部分をこのわが家の工事で感じさせられている。
大きな「用途変容」に対して基本構造のコンクリートブロックが
柔軟に力強く受け止めている、という印象が強い。
いかにも「北海道らしい」空間がどんな変容を見せるか、
自分自身でもワクワクしながら、変化に富んだ日々を楽しんでいます(笑)。
Posted on 3月 26th, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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