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【クルマによる人類的「進化」体験とは?】

「サピエンス全史」について。
このブログで「これから読みます」もしくは「ちょっと読んでいるところ」
として紹介してから数ヶ月は経っているのですが、
お恥ずかしいことに、その長編ぶりに日々の仕事生活がマッチせず、
いまだに全20章のうちの第16章を彷徨っています(泣)。
歴史、それも人類史全体を鳥瞰して考えさせてくれる視点というのは、
現代の細分化された担当別区分歴史家の話ばかりに閉口させられていた
全世界の多くの読書家に一撃を与えてくれたことは間違いありません。
しかし、なんといってもまぁ「長い」。
現代人細切れ読書時間の積層では、ちょっと太刀打ちできない長さですね。

なんですが、こういうビッグスパンの思考を植え付けられて
さまざまな気付きを日々実感もしている次第。
人類史というスパンでの自分の人生を考える思考を巡らせると、
ふと、クルマと自分の人生ということに気付いた。
わたしは昭和中期、戦後7年目に生まれたのですが、
3歳までの農家環境から、それ以降は札幌市中心部での暮らしが始まった。
なぜか、浪漫的な性格をしていたのか、
家の前には「石山道路」という市内の幹線道路が走っていて
それを南に下っていくと、定山渓〜中山峠という
「遠くに繋がっている」道を見続けて育っていた。
「遠くに行きたい」というのは人類の夢想の中でも大きいと思うのですが、
わたしの育った環境では、それがどんどんと実現した時代だった。
クルマという科学技術進化が、親の代には考えられもしないほどの
超発展を遂げているまっ最中に少年期を過ごしていた。
一番上の兄はわたしより1回りくらい上なのですが、
家の仕事の用事でクルマで遠くまで出掛けなければならないときに
よくいっしょに同乗していた。かれは18歳から免許を持っていたので、
わたしは小学校低学年くらいから、普通にモータリゼーションを体験していた。
父母の話の中でしか想像力を持てなかった土地の情報が
そこに行けることによって体験情報として大きく拡張した。
たぶん、クルマというものが大きく変えた人類的変化・思考を体現した
夢想の部分をわたしという人格は持っていると思います。
それが具体的にそれ以前の人類とどのように違うのかは、まだよくわからない。
しかし、たとえばクルマという手段を使って獲得した
知の自由、体験感というものはきわめて大きいと思う。
きっと現代という時代は、きわめて人類史的にも特異な時代だということは
良く理解できると思わされております。

さて、なんとか本日中に読了させないと、また1カ月はすぐに過ぎ去りそう。
気合いを入れて読み切りたいと思っています。
なんとか「読書感想文」を明日以降、書きたい(笑)。

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